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The Audio interview to Jack Pfeiffer
Interviewer : Audio Magazine's Susan Elliott

1992年後半、 Jack Pfeifferは、Audio Magazine誌のスーザン・エリオットとの広範囲なインタビューを受けた。その内容のすべてをここに示す。

彼はRCAの貴重品保管室の王子であり、現在、すべての「眠れる美女」を再びよみがえらそうとしている。それらの多くは、彼が作成したものだ。

Jack Pfeiffer(以前はJohn F.)は、RCA(今BMG)に43年勤めたベテランであり、アルトゥール・ルービンスタイン、ヴラディーミル・ホロヴィッツ、ヤッシャ・ハイフェッツ、ヴァン・クライバーン、レオンタイン・プライスおよびアルトゥール・トスカニーニを含む、クラシック音楽で崇敬された大半の演奏者のオリジナル録音を多く制作した。

彼は、今これらの至宝のCDでの再発売を監修している。Pfeifferは、アリゾナ大学を卒業してすぐ、1949年にRCAに入社した。彼は、78回転からテープ、マイクログルーブ、Dynagroove、ステレオ、4チャンネルおよびディジタルまで見てきており、そしてある場合には、制作の支援をしてきた。



ジャックさん、あなたは、多くの偉大な人々と仕事をされていますが、それについてどう感じておられますか?

私は、それをどんなに誇りに感じているか、あなたに伝えることができません。ヤッシャ・ハイフェッツがマイクロホンへバイオリンを演奏しているあいだ、調整室の中で座っていたこと思い出すことができるだけです―そしてその後、彼は、私がどう思うか私に尋ねたことを覚えています。

素晴らしいですね!

これらの偉大な芸術家のすべて-ハイフェッツ、ルービンスタイン、ストコフスキー、 ライナー、ホロヴィッツ、ランドフスカ、レオンタイン、プラシド-が、私の意見から得るものがあったと感じた、というようなことは、考えたこともありません。

あなたのプロデューサーとして役割をどう見ていますか?

私は一人の聴衆であり、一つの入れ物にすぎません。芸術家は反応を望むのです。彼らは、常にそれが有効であると考えている訳ではないのですが。

とても謙遜されていますね。あなたが忍耐強く温かい人であることの他にも これらの人々があなたのところに戻り続けた理由があるに違いありません。

私は、それがすべてだと思うのです。いずれにしても、私はアーティストに、私は常に彼らの側にいるのだという気持ちを与えるようにしておりました。彼らがベストを出すために手助けできることなら何でもやりました。結果的に、彼らは私に友情を与えてくれたのです。何人かとは、とても親密な友人関係になりました。

それは、誰ですか?

ハイフェッツ、ホロヴィッツ、ワンダ・ランドフスカが多分最初でした。それに、ヴァン・クライバーンとは大の友人でした。

あなたをスタジオで見ていると、後ろに寄りかかって、低い声で - そうですね、たとえば Tom Frostのやり方とは、とても違って見えました。彼はとても積極的で、いかにもミュージック・ディレクターという感じですから。

私は、アーティスト自身がやりたいことをよく分かっており、それをレコードに刻むことが私の仕事なのだといつも思っていました。- どうやるかとか何をやるかを彼らに伝えるのではなくてね。もちろん、アーティストのレベルに大きく依存します。ある人には、“すみませんが、うまくいってないですね”と言わざるを得なかったこともありました。でもそれは、彼らがやっていることに確信が持てていないと感じたときだけです。アーティストが優れているほど、一緒に仕事をするのが楽だと感じました。

RCAに43年間いらっしゃったわけですが、あたなたにとって最良の時はいつでしたか?

最初の年ですね。視野が広くなり、信じられないほど興奮し、熱中し、すべてが新しく思えました。遠くから崇めていた人たちと突然近しくなったのですから。私がやれたことは、どれもこれも考えたこともなかったことですが、とても楽しく過ごしました。

お始めになったときには、テープは普及していたのですか?

最終的に録音部門に配属されたとき、テープがちょうど入ってきたばかりで、なんでもそれで録音されていました。RCAの技術者は、独自のテープ装置を製作していました。いま、Tinkertoysと呼んでいるものです。小さな7インチ・リールが付いていて、毎秒30インチで走行していたので、リール1本あたり7.5分しか使えませんでした。それより長くかかるものは、オーバラップさせる必要がありました。 初期のトスカニーニの録音のうちのいくつかは、そういう風にしたものでした。それからそれらを結合しなければなりませんでした。

普通は、どんなものでも2台の装置を走らせました。1曲が7.5分より長い場合、一台を停止させ、リールを交換してからスタート、それからもう一台の装置を停止、リール交換そしてスタート、といった風でした。

エンジニアとしてスタートされたのですか?

技術学校をを卒業する前から雇われており、設計開発エンジニアとしてRCAに入ったのです。彼らは、私が音楽の学士号を持っており、また工学の学士号を取ろうとしていることに興味を抱いたようでした。私はCAMDEN(NEW JERSEY)のトレーニングコースを受けました。私は在学中に、多くの音響関係の仕事をしたので、彼らは私にオーディオ・アンプやIM歪みアナライザの設計をさせようとしたのです。

それは、いつまで続いたのですか?

私は、'49年の7月に入社しました、そして、9月までに品質管理エンジニアとして録音部門で出発しました。彼らは、音楽的背景を持った人材、技術的な欠点および音楽の欠点をを見分けることができる人材を必要としていたのです。私は仕事を得ました。私は、24番街のレコード部門で生産管理も担当することになりました。

それは数か月の間にそうなったのでした。しばらくして、クラシック部門におけるただ一人のプロデューサーだったRichard Mohrに会いました。RCAは、LPと45(訳注:EP盤)のために多くの初期の78 rpm録音を再録し始めていましたが、それらの品質は、新しいマイクログルーブ・フォーマットに転送するには不十分なものでした。彼らは、78s(訳注:SP盤)の上でポピュラーだったレパートリーを再録するために、ボストン交響曲やすべての主なオーケストラでのセッション、そして器楽演奏家-ハイフェッツ、ホロヴィッツなど-を準備していました。リチャードは一人ではそれを行うことはできませんでした。とにかくたくさんあったのですから。

私の音楽的背景について知った時、A&R部門で彼に加わってくれるように私に依頼してきました。1950年の春でした。

Tinkertoyはどれくらいの期間使われたのですか?

1950年までに、我々は、16インチのリールを備えた機械を持っていました。それで、我々は130分間までの音楽を秒速30インチで記録することができました。これらは、主にLPマスターおよびトスカニーニの放送を集めるために使用されました。その後、'52年か'53年頃、Ampexが、数種類の秒速15インチの良い機械を登場させたのです。ヘッドが良く、エレクトロニクスも、メカニカルな面も良いものでした。トルクが、より安定していました。フラッターやワウは、ほとんどなく、また、2,400フィートのリールでLPの片面全体、約23分、を記録することができたのです。

ずっと78sを聞いておられた後に、最初にマイクログルーブ・レコード(訳注:LPのこと)を聞かれた時、どうでしたか?

私は興奮してヒステリーも同然でした。それは非常に美しかった。なによりも、音楽が5分ごとに中断されなかったこと。それに、カチッ、パチッ、バチッ、ガシャンといった音を聴かないで済むことが、とにかく嬉しかったですね。

ステレオ初期の頃、あなたが関与されたことを話してもらえませんか。

我々1954年にステレオの実験を始めました。それは、結局2トラックの装置を手に入れた時でした。私は、我々の録音セッションの優位性を活かし、2つのシステムをセット・アップするよう主張しました。

私たちは、シカゴおよびボストン交響楽団の録音セッションでこれを行ったのです。mono装置一式とstereo装置一式があり、各々それ自身のコンソール、マイクロホン、テープマシン、エンジニアおよびプロデューサーが配置されました。それらのセッションから、我々はいくつかの素晴らしいな録音を得ることができました。特にReinerによる、シカゴ交響曲のシュトラウスの英雄の生涯がそうです。それらは、'54年の3月に行われました。

どのようにしてそれらの最初のステレオ録音が「素晴らしい」ものだと分かったのですか?

全く無知の状態でした。私は2本のマイクロホンを使用しただけでした。文字通り、各トラックに一本です。私はシカゴのオーケストラ・ホールでシカゴ交響楽団の前に2本をセット・アップしました。そうして、我々が得た明瞭性および解像力は、- もちろん、その多くは、ホールの音響特性、音楽家の質、Reinerのバランスなどと関係していますが - 非常に劇的なものでした。

それは、我々がかつて以前に聞いたことがあるものとは完全に異なっていました。私は、24番街で試聴会を準備し、この素晴らしい音を聞かせるために、まわりにいた誰でも彼でも連れ込んだのです。RCA役員のうちの何人かにも、聴いてもらったことを覚えています。 彼らは皆、大変感銘を受けたようでした。

初期のステレオ実験は、マイクロホンが少ないほど、真に最上の録音が得られるという点を証明したと思います。マイクロホンは賢くありません。それらは、来るものすべてを拾い上げるのです。ですから、多くのマイクを持つほど、多くの位相差を捕らえることになり、加えて、音響環境からの反射音をすべて拾い上げることになります。それはすべて混乱を増すだけです。私は、マイクロホンの数を制限しようと常に努めました。

今でもそうですか?

はい。もちろん、マルチマイクにも利点はあります。よい演奏を得るための録音セッションに時間制限があるとしましょう; ライブでは、チャンスは一回だけです。使える保険はすべて使用する必要があります。― コストが莫大な場合、セッション中ではなく後で(ミックス中に)様々な組合せを試みることができるように、多くのマイクロホンを使うべきです。マルチマイクで満足できる結果を得ることはできますが、2本のマイクロホンだけを用いた場合と同等のベストの結果は得られないと常に感じています。

2トラックから3トラックへのステレオ装置の進歩によって、あなたのマイク哲学は変わりましたか?

少し変わりました。'54年に、Ampexが、独立した3トラックの録音装置を出してきました。それは、実用的なものに思えました。というのは、しばしばソリストがいたのですが、そのソリストをオーケストラから分離したい場合、2トラックにオーケストラを録音し、第3トラックにソリストを記録することができたのです。

しかし、まだ1トラック当たり1つのマイクを、と思われていましたか?

そうです。その後、時々ですが、ソリストの後ろのオーケストラの中心部が、少し引っ込んで鳴るように思い始めました - しかし、それは音の拾い方が適切でなかったのです。 それで、私たちは、もう少し多くのコントロールができるようにするために、木管楽器用に2本のマイクを置こうと思ったわけです。そして、その結果、打楽器が良く聞こえなくなったのです。結局、手に負えなくなっただけでした。

他に、どのような実験に関与されたのですか?

ステレオの前にさえ、我々はテープ編集を使用していました。現実に、LPがテープ編集作業を作ったのです。というのは、(初期の頃は)一枚の LPを作るために78rpmの両側をくっつける編集をしなければならなかったのです。

そのことで、誰もが、より多くの自由度を持つことに気づいたわけです。編集は実際に魅力的でした。何人かの音楽家は、その可能性に非常に圧倒され、ひどく興奮したのでした。特にヤッシャ・ハイフェッツがそうでした。彼は偉大な修繕屋でした。彼は、自分の手で仕事をすることが大好きでした。彼は自動車、銃器の類のすべてが好きでした。 彼は、カリフォルニアの作業場に世界中のすべての道具を持っていました。もちろん、どれも使用しなかったわけですが。

彼の修繕癖のため、テープ編集を発見した時、彼は魅せられてしまったのです。彼は、編集のための編集をしたかった訳ではありません。それは、彼がそれまでできなかったことができる能力を与えたのです。編集以前に、多くの優れた録音を残していましたが、彼は録音には全く満足していませんでした。

私自身、実際に編集魔になりました。技術的なものへの私の関心のために、私は、すぐに可能性のすべてを理解しました。私は、音のアタックによって作られようとしている波形を思い描くことができたので、何を聞くべきか分かっていました。

例えば、ランドフスカのハープシコードのアタックは、非常に鋭い波面でした。あなたは、音がどこで実際に始まるか聞くことができたでしょう。もしあなたが忍耐強ければ、一音ごとに編集することができると思います。そして、私は大変辛抱強かったのです。ランドフスカと我々は、平均律クラヴィーアの録音上で多くの編集を行いました。それは、彼女にはとても有益でした。特に彼女は年を取っていて、自分の指をいつも信頼できる状態にするのに苦労していましたから。私はその録音では自分で編集に手を染めました。

あなたの編集哲学は年月を経て変わりましたか?

それほど変わっていません。私は、自発的なフィーリングのできるだけ多くを維持しようと努めています。過剰編集すると、それを失う危険があります。音楽の体験は人間的要素を持たなければなりません。したがって、それは欠点を持たざるをえない。音楽から欠点がなくせないのであれば、私は、それらは残されるべきと思っています。

ハイフェッツの録音を最初に始められたのはいつか教えて下さい。

1950年の夏、Gregor PiatigorskyとArtur Rubinsteinとのトリオを録音するために、私は、Richard Mohr と一緒に初めてカリフォルニアへ行きました。次の年、私はバッハの無伴奏ソナタとパルティータの仕事で1人で出かけました。我々は、ハリウッドのSycamore (スズカケノキ)通りのRCAのスタジオで仕事をしました。そこは、基本的には、サウンドトラック録音のために用意されていたところでした。

編集に魅せられていたハイフェッツのために、私たちは多くの手直しを行いました。ソナタのうちの1曲に、バッハが低いF音を書いたはずとハイフェッツが考えた箇所があるのです。それはバイオリン上でもちろん存在しない音です。そこで、彼は、低いG弦をFに調弦し直している間、止まっているよう決定したのです。彼がそのフレーズを演奏したら、彼が再度調弦し直すまで我々はストップすることにしました。その後で、フレーズ内を編集したのです。それは録音に残っているのですが、これまで、誰もそれに気づいていません。

50年代の初期に、他に誰かの録音を行いましたか?

そうですね。ホロヴィッツとの私の最初のソロのセッションはハンター大学で1950年12月でした。彼は、リストのFuneraillesと「星条旗よ永遠なれ」を演奏しました。他のものに交えて、すべて同じ日に。私はその同じ年、ピアニストWilliam Kapell、 Jose Iturbiおよびロバート・ショウ合唱団を録音しました。我々は、1952年10月にバッハの「無伴奏ソナタとパルティータ」を完成しました。また、1950年代の初期には、 コネチカット州LakevilleでのLandowskaとのセッションの合間に、Stokowski 、Kirsten Flagstad、Jussi Bjoerlingも録音しました。

1954年には、我々は、ヘレン・ヘイズ、トマス・ミッチェルおよび詩人の金と呼ばれたレイモンド・マッシーと一連の録音を行いました。私はヘイズに、私の好きな詩「フクロウと子猫ちゃん(The Owl and the Pussycat)」を録音させました。彼女は大変な喜びようでした。

それはトスカニーニがNBC交響楽団から引退したのと同じ年ではなかったですか?

そうです。私は、1954年に彼の最後の2つのコンサートをステレオで録音しました。彼らが録音のために用意していたmonoでの設定と独立にね。家族が承認していないので、それらはCDでリリースされていません。それらはあまり良くなかった。しかし、それらは彼の唯一の真のステレオ録音なのです。

BMGのトスカニーニの82枚ものCDに相当する再発プログラム全体を監督されましたね。どの音源を使用されたのですか?

オリジナル録音マスターです。すなわち彼の承認を得るためにマエストロに聴いてもらった合成オリジナルテープです。ある場合には、それらのオリジナルの音源テープは失われていたり、破壊されていました。それで我々は、リンカーンセンター図書館へ貸与されていた、ウォールター・トスカニーニ保管庫に行きました。彼は、良しとされたマスターテープの15-ipsコピーを入手しており、ほとんど良好な音源を持っていると思われました。

オリジナルはどんな状況だったのですか?

ひどい状態でした。それらは、何年もの間、適切に扱われていなかった―それらは不適当に巻かれており、酸化物がはがれているものもありました。まったく使用不可能だったものも何度かありました。許容できる音源の捜索には、多くの困難がありました。

つなぎ合わせに最も手がかかった録音はなんでしたか?

ヴェルディのレクイエムです。私は、1日かけてそのコストを計算しました。オリジナルの録音以上のマスターテープを新たに作るコストです。エンジニアリング時間は、1時間当たり145ドルかかります。我々はその上で何百時間も費やしたのです。それは始めはひどい録音でした。それは放送用で、また、ピックアップが特によくなかった。加えて、その演奏には力があり、誰かが後方に立って雷のようなドラムをたたいている「怒りの日」の広いダイナミックスを持っていました。その録音はマエストロの承認を得るためのものに到るまでに、多くの形態を取りました。それらは、リハーサル部分と放送部分から取りました。オリジナルは歪みだらけでした。生産マスターは本当にひどいものだったのです。

それで、私たちは再編集し直さなければなりませんでした。ウォールターの手紙からの注釈、および自分達のレコードの音を参考にして、マエストロが承認した合成テープを再生成しました。結果は驚くべきものでした。マエストロはTuba Mirumの中で、すべての金管が鳴り始めたときですが、叫び始めたのです。それは処罰のように聞こえます。もし私がマエストロの叫びを聞かなかったなら、ヴェルディのレクイエムのその部分は、正しく響かなかったでしょう。それは血を沸き立たせるものです。

彼は、皆が言うような驚くべき力そのものでしたか?

そうです。彼の個性の力に圧倒されずに、彼のコンサートに一回でも行くことはできなかった。彼は、欲することに対して大変な集中をしていました。基本的に、彼はオペラ指揮者でした; 彼は、劇的なメッセージを持つ音楽においてベストでした。もちろん、ベートーヴェンの中にその多くがあります; 本当に強靱で力にあふれた音楽に対して彼はベストな演奏をしました。

Dynagrooveの開発についてのどう考えられますか?

50年代の後半になって、いくつかの会社が35 mmのフィルムに録音し始めました - Bob Fineはマーキュリー(Mercury)でそれを行ったのです。技術的に、それは非常によいシステムでした。 George Marek(RCA社長)は、我々も何か大きな技術的なブレークスルーを持たなければならないと決心したのです。彼は、私とジョン・ヴォークマン(John Volkman)および我々のエンジニアリング部門長であるドン・リヒター(Don Richter)と共に、音響学の天才ヘンリー・オルソン(Henry Olson)博士を呼び寄せました。そして、市場のどんなものより優れた音にするよう我々に命じたのです。

そこで、ドンは、演奏レベルに関係なく、楽器や音の特性を引き出すように設計されたイコライジング・システムを開発しました。彼は、多くの人々が実際の演奏よりはるかに低いレベルまで聞いていると主張していました。それは恐らく真実です。フル・オーケストラは110 dBまで出せます。しかし、家庭ではそのレベルで演奏することはできません。あなたのシステムも、あなたの隣人も、それに耐えられないでしょう。

それで、ドンは、ダイナミックに作動する、すなわち、音楽のダイナミックスに応答するイコライザ装置を開発したわけです。それは、音楽が全体的に高いレベルに上演されれているとした場合、それを聞くのに似た周波数レスポンスを全体的により低いレベルで与えるものでしたが、それは大きな誤りでした。すぐに、すべての批評家は「ダイナミック・イコライザ」を見て、我々がダイナミックスを平均化していると想像しただけでした。

Olsonは、球状の再生針とより良く適合する溝をカットできるひずみ除去装置を開発しました。そのころは丸針しか無かったのです。そういうわけで、私たちは研究開発部門の成果とレコーディング部門の成果を得ることができました。

あなたが、これらすべてを組み込んだのは何処でしたか?

私は、全面的に品質を改良した新しいレコーディング方法を見つけだすことを期待されていました。私は、音楽とエンジニアリングの問題および音響心理学を勉強する2年間のサバティカル休暇から戻ってきたばかりでした。

Marek氏は、私に「そこに入って、録音の仕方をプロデューサーおよびエンジニアに伝えるんだ。レコードの音質を決定することは、もはや彼らの仕事ではない。それは君の仕事だ。伝送やミックスダウンなどを追求してくれ。すべての録音が君が望む特性を持つことを確かめてくれ。その後で、これらの他の2つの改良をレコードに適用してみよう。そうすることで、我々はより良い製品を持てれば、それをDynagrooveと呼ぶことにしよう。」と言いました。

あなたの新しく改善された方法はどんなものでしたか?

私はマイクを投げ捨て、セット・アップを単純化することを始めました。また、すべてをそれまでより基本的なものにしようと努めました。これは、'62年頃のことで、私はすべてのセッションに行き始めました。しかしながら、私はDynagrooveという名前が嫌いでした。

それで結果はどうでしたか?

最初のレコードは大変な熱狂で受け入れられました。しかし、批評家がダイナミック・イコラーザについて読み始めた時、彼らはレコードのダイナミック・レンジに制限があるのか質問し始めました。彼らは、家庭用機器のためにレコードのダイナミックスをイコライジングしているのではないかと思ったようです。

Dynagrooveは、どれくらいの期間続いたのですか?

4年か5年でした。その後、レコード会社全体が元気をなくし、我々は非常に悪い時期を過ごしました。

次の技術的なマイルストーンは?

4チャンネルです。私は、技術開発に巻き込まれました。4チャンネル・システムの審美的な特質をデモしただけですが。私もそうでしたが、皆がその可能性を感じていました。しかし、そのころプロデューサーはそれをどう使えば良いか分かっていませんでした。

4チャンネルの後は?

ディジタルです。私は'76年か'77年に研究し始めました。私は'73年に始まった、カルーソー・プロジェクトでのSoundstreamにTom Stockhamと取り組んでいました。基本的に、Stockhamは古いカルーソーの録音をコンピューター上で処理するためにディジタル形式に変換しなければならなかったのです。Stockhamは、少なくともわが国でデジタル・レコーディングを実証した最初の人でした。彼は、後になってそれを、'75年か'76年にVirgil Thomsonのオペラ「The Mother of Us All」で我々に実証してくれました。

一度ディジタルが商用で可能性があることがわかり始めると - Denonは自分のシステムで参入し、次はソニーでした - Tom Stockhamはこの国で始めたのです。彼は異なるシステムを設計し、私にはより良いものに思えました。それは、より高いサンプリング周波数 - ソニーの44.1 kではなく - 1秒当たり50,000を使用していたのです。私は、Soundstream編集システムがより柔軟であり、ソニーのものより多くの自由度を与えてくれると思いました。

RCAの最初のデジタル・レコーディングは何でしたか?

それは、1979年、ユージーン・オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団でバルトークの「オーケストラのための協奏曲」でした。Jay Saksがそれをプロデュースしました。

ディジタル時代の初期の頃では、RCAのアナログとディジタル録音はどんな比率だったのですか?

40%くらいがディジタルでした。記憶装置が非常に効率的なシステムでしたので、私は、Stockhamが最初に実証した時からのデジタル・レコーディングを促進しました。それに、いかなる時間劣化もなかったですしね。しかし、音については、よいマイクロホン配置と最高性能の設備で行ったアナログに比べて、良いとは言えませんでした。

それは基本的に高品質伝送路なのです。彼らは、コンソールの中で今もちろんそれを使っています。しかし、未だにアナログ音からディジタル形式に変換しなければならないし、また、その変換はそれに伴う欠点を持っています。デジタル・レコーディングというだけで、よい音になる訳ではありません。エジソン氏が「メリーさんの羊」を録音して以来そうだったように、マイクロホン配置、音響環境、そしてオリジナル録音中に下す判断がいまでも決定要因なのです。

テープヒスについてはどうですか?

誓いますが、それはもはや問題ではありません、実際にも、問題になったことは一度もありませんでした。私は音楽を聞いているのであって雑音を聞いているのではありません。心は、聞きたいものに専念する能力を持っています。心は、何を聞いて、何を聞く必要がないのか識別できないマイクロホンとは違います。

ディジタルには欠点があるのですか?

我々の経験では、ディジタル・テープは、アナログより急速に劣化します。U-maticテープの保存寿命は10年といっている製造メーカーもあります。

ディジタルが全く音と関係ないとすれば、硬く鋭いストリングの音やカズーのようなオーボエの音を持った初期のデジタル・レコーディングについてどう説明するのですか。もし、あなたがすべての音源をデジタルで聞けば、ディジタル音について何かやるべきことが出てくるでしょう。しかし、そんなことはしませんよね。したがって、何かディジタル以外にやるべきことがあるに違いないのです。

ディジタル音は変化していると思いますか? 改善されていますか?

思いません。しかし、それでどう録音するかについて人々は多少学習しています。

RCAが真面目に昔のカタログをCDで再発行し始めた時、あなたは、ボールを持っているとコメントされましたね。

ええ、それはとても楽しかった。それらの録音の多くは、もともと私がプロデュースしたものでした。ですから、昔に戻って眠れる美女のうちの何人かと親しくなることは素晴らしいことでした。

あなたの最近の主要な仕事は何ですか?

再発のプロデュースをやっています。私は、ディジタルのマスターテープを新たに作るのに3人の仲間を監督しています。私の仕事は、BMGクラシックスの再発プログラム - Red Seal、 Victrola,、Gold Seal、Silver Seal、Victor - 全体に関わっています。ブロードウェーショーさえもです。そしてもちろんトスカニーニ・コレクション。またVictorボーカル・シリーズの - それらに私は親近感を持っています - Geraldine Farrar、Ezio Pinza、Marcella Sembrichによる録音。まだほんの少ししかできていません。私は販売促進担当者にそれらをスケジュール通り進めるよう急がせています。

それから、 ほとんど終えていますが、Victor オペラ・シリーズがあります。私は、絶えず再発行されるべき録音のリストを作っています。例えば、パデレフスキー、カペル、ラフマニノフ、クライスラーそしてカザルスといった人々の新 Victor 器楽演奏シリーズといったものです。我々は、現在やれている以上に行う設備を持っていないだけなのです。

すべてを社内で行っているのですか?

我々は、78 rpm(注:78回転のSP盤レコードのこと)の良い移行設備を持っていないので、いくつかの78 rpmの移行は外部で行いました。それは失われた芸術です。ほとんどのエンジニアは、78 rpmのテープへの移行方法を知りません。それは全く別の分野なのです。

あなたが見てこられたすべての技術進歩に関して、あなたのプロデューサーとしての哲学は年を経てどう変化しましたか?

私は、最良の音楽演奏ができるよう、または、芸術家の最良の表現が得られるよう努めているだけです。もちろん技術的な面の役割はあります。しかし、それらは、目的への手段以上ものではないのです。

- 1992年11月