人間の一生~松田聖子 40 周年に向けて~
Seiko Matsuda 40th Anniversary


 2020年 4 月 1 日、松田聖子が歌手デビューして 40 周年となる。記念すべき一区切りではあろうが、 50 代後半に至っても新しいことに取り組むことに何ら躊躇のない松田聖子を見ていると、彼女にとっては単なる通過点に過ぎないことは明 白である。もちろん、ファン向けのリップサービスとして、これまでの 40 年を感慨深そうに振り返ることはあるだろうが、内心は感慨にふけるよりもその先のことを考えているはずである 。そういう松田聖子の生き方を見るにつけ、私は彼女の歌を楽しむだけでなく、人間の一生のようなものを考えてしまうのである。

 松田聖子がアイドル歌手としてピークにあった1980 年代は、毎日毎日決められた仕事をこなすだけで朝から晩までが過ぎていき、その中で、いまだに輝き続ける多くの作品を消化していたわけだから、駆け抜けるだけで精いっぱいのはず。それでも、「スケジュールが開くのは耐えられない、スケジュールをどんどん食べて自分の栄養にしていくからハードなスケジュールでも耐えられる、もし栄養が足りなくなったら、すぐ、また何かをさがさなければ生きていけないかもしれない、納得できないことはやれない性格で 、 睡眠時間が減ってもスタッフと徹底して話し合う 」と本人が述べているように、仕事中毒的なところが彼女を支えていたようだ。 とはいうものの、本人にしても還暦近くまで歌い続けていることは想像外であったことだろう。

 アイドル歌手は、肉体条件・年齢条件の支配下にある職業である。その歌を受け止める年齢層は10代から20代前半くらいを想定したものであって、思春期から20歳前半くらいまでの多感な恋心や悩み、希望といったものを歌うことで同世代の共感を得る、もしくはファンの疑似恋愛対象であったり、あこがれとして存在するのが典型的な役割である。そして、一定年齢を超えるとその役割を終え、次のステージとして、歌手として活動を継続するのか、他の職種に転身するのか判断を迫られる職業である。このことは現代では「アイドル卒業」という表現に象徴されるのだが、次のステージで歌手として活動を継続するには、当然ながら肉体条件・年齢条件の支配下から脱した活動をするための新しい歌手像を模索しなければならない。このことは案外難しいもので、若さを武器に名声を得ていた歌手にとって、自己変革していける才能が備わっていないと長続きしない。結果として、多くの歌手が脱落していくことになる。こんなことは、松田聖子にはとっくに分かっていたことで、サンミュージックから独立した時点で、自分なりの勝算を持って活動を開始したはずである。その勝算がどこからくるのか、松田聖子が自分の歌唱能力に自信を持っていたことは当然だし、いまでもステージで繰り返し感謝しているように、ファンが自分についてきてくれると信じていたからでもあろう。それでも、最大のモチベーションは、松田聖子自身が歌うことが好きで、ステージに立つことが好きだったからだと言える。

 80年代の松田聖子の伝説的成功については、繰り返し語られていることなので、ここで深入りすることはしないが、松田聖子の天才的才能を説明する基本情報として、NHK教育「THE SONGWRITERS」における佐野元春と松本隆の有名な対談(2009年8月)を再録しておく。

佐野)松田聖子プロジェクトで一番苦労した点とうのはどこですか?
松本)何も苦労しなかった。
佐野)そうですか。やっぱり、僕は松田聖子というシンガーはね、80年代をある意味象徴するディーヴァだったのではないか、作曲家はみな直感でそれを感じていたんではないかと思うんですけども。
松本)80年代じゃないね。戦後を象徴してる。
佐野)戦後を象徴してる、ウーン。
松本)やっぱりね、あの人の表現力、歌ってる時の。だから、歌なんだけども、全身で表現するの、あの人。
佐野)松田聖子さんですね、はい。
松本)だから、うれしいっつったら全身でうれしく歌える人なの。指の先までうれしい、足の爪までうれしいみたいな。そういうことができる人は今いない。
佐野)確かにそうですね。ただの歌手というより身体表現にも優れていた。
松本)だから、身体表現のパフォーマンスの天才だよね。そんなこと分かんなかったけどね、当時、詩、書きながら。
佐野)ウーン。
松本)聖子のすごいところって、あの難解なことをサラッとやるから、ただのヒット曲に聴こえるわけ。
佐野)魔法の粉を振りかけたような大衆性を表現できるということですよね。
松本)だから、詞も曲も全然易しくないわけ。
佐野)うん、分かりますよ。
松本)それをね、自分流にポンと消化してしまう、瞬間的に。あの人のは全部瞬間芸だから。
佐野)あー。
松本)だって、レコーディングの、え~と、これからレコーディングしますよっていうときに、詞、渡すんだから。
佐野)あー、そうなんですか。事前に見てもらって、良く練習してきてもらうというのは無かったですか?
松本)ないよ、全然。だから3回練習で歌うじゃない。次、3テイクくらい録ったらできちゃんだもの。
佐野)それはどう思いました?松本さんの非常に複雑な心象が反映されているだろうその詞を、3回くらいのテイクで、あたかもその大衆に説得性あるような歌を・・・
松本)だって、メロディーだって事前に聴いてない。ディレクターが鼻歌でメロディーを歌うのね。3回聴いたら覚えちゃう。5テイク以上録ると、もう声がちょっと疲れてきたからダメかもしれないと思うんだけど、本人は絶対やめないからね。超絶な根性だよね、超人間的な。あれはねぇ、かなわないよ。普通の人には、一般人にはできないことだね。その消化力の速さ。だって、メロディーも覚えちゃって、詞も覚えちゃうんだから。
佐野)しかもそれを一級の表現として歌えるということですよね。
松本)うん、だから平たく言うと天才というしか言いようがないわけ。

 この音楽的天才性とビジュアル面での魅力を備えた圧倒的存在として80年代の松田聖子が存在していたわけである。ただ、80年代の聖子の存在を圧倒的にしたのは、本人の才能、魅力に加えて、超一流の作家陣の存在もある。少し皮肉な言い方をすると、作家たちは松田聖子を利用してその存在をアピールしていたともいえる。

 そうした制作体制を継続していく道を取り続けることもできたのかもしれないが、松田聖子はその道は選択しなかった。1989年6月に所属事務所から独立して、80年代の自分から脱皮することを選択した。

 松田聖子があれだけの圧倒的成功を収めた80年代の自分から脱皮して次のステージに進むにあたって、どのような歌手像を目指し、どのようなゴールを目指していたのかは定かではない。ただ、アイドル歌手から一般のポップス歌手の一人としてやっていくことは明確で、その中で自分が培った強みを残したうえで、どう取り組むかを考えたに違いない。それを具体化していくためのプロセスとして米国進出を選んだ訳だが、米国に行くことを決心するにあたっては、相当逡巡している。英語ができないし、米国の歌手はすごい。夢はあるけれど、はたしてアメリカで通用するか不安でいっぱいである。そうした松田聖子の背中を押したのが、当時知人を通じて知り合ったクインシー・ジョーンズであった。不安について話す松田聖子に対し、クインシーは言う、「それは違う。マイケルだってマドンナだって、だれにとってもヒット曲を出すのは大変なことなんだ。人種が問題なんじゃなくて、いかにいい音楽をやっているかということがポイントなんだ。音楽に国境はない。キミはこっちに来てやりなさい」この言葉で決心は固まった。その後、クインシー・ジョーンズは松田聖子の一生の師となるわけだが、クインシーとの出逢いは、「人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」という言葉を思い出さずにはおられない。それは、松田聖子が歩くべき道を歩いていたからこその出逢いであったといえる。

 こうして米国に進出してアルバムSeikoをリリースし、その中のThe Right Combinationがビルボードで13週チャートインし、最高54位という成果を残す。この成果については、日本では過小評価されているきらいがあるが、松田聖子はこれを「戦い」と表現している。

 月刊PLAYBOY1990年12月号のインタビュー記事を紹介しておこう。

PB)ビルボードで13週ずっとチャートインしているすごさというのは、日本人にはなかなかわからないんじゃないかと思うんですけど、ご自身では大成功だったと思ってますか、デビュー第一段階としては?
聖子)いや、大成功じゃないですよね。もちろん。私はやっぱりトップ・ボードに入りたかったし。最終的には54位までいきましたか。でもまあ、そこまでいったことはたしかにすごいことだし、だけど、40位に入りたかったなという思いもあるし。でも、私と同じように新人のアーチストで、アメリカ人がいっぱいいて、ほんとに何千人というひとがいて、その中で日本人である私が同じ土壌で戦って、そこまでいけたということは、それはすごいことだと思う。そういう点ではうれしいんです
PB)いま戦いとおっしゃいましたけど、気分としてはやっぱり戦い?
聖子)壮絶ですよ。見てると。だってラジオにかかるということ自体がたいへんなんですから。私なんか日本でやってきたからどうしてそんなにむずかしいの、と思ったんだけど、新人はまずかけてもらえないんです。それがエアープレイされるというだけでも大騒ぎですからね。レコード会社中が。だからホーッと思いますよね。それでそこまできたというのは私はうれしいし、でもまだまだですけどね。
PB)ラジオにかかるのがそんなにむずかしいんですか?
聖子)だって、何千、何万というアーティストがいてですよ、かかるレコードなんて限度があるわけでしょう。その中で、新人でその中に割って入っていくということは、これはもう、ほんとに大変なことですから…。今、ちょっと力が入りましたけど(笑)。
PB)そういうことって、日本にあんまり伝わってきませんよね。
聖子)そうでしょうね。もっと勝手に考えてますでしょう。私なんかも最初は、日本と同じだろうと思ってましたから。一応(日本で)いい状況で10年間きたから、ニューヨークでもレコードを出したらすぐにラジオでもかけてもらえる、テレビに出るみたいなね。とんでもないですよね。
PB)一番最初にラジオにかかったときというのは覚えてますか?
聖子)それはですねぇ、『ザ・ライト・コンビネーション』がまだ発売される前に、ロサンゼルスのFMで流れてナンバーワンになったんですね。それを自分で聴いたときにウワーッと思って、大感激でした。それはロスで起こったことなんで私は直接はラジオから聴いてないんですけど、テープにとってもらって自分で聴いたら、イントロが流れて来て、「今週のナンバーワンはセイコとドニー・ワールバーグのザ・ライト・コンビネーション」とか言われて。うれしかったですね。ヒャーッとか思って。洋楽だぁ、なんて。私は洋楽なんだなって。アメリカの歌手になったんだなって。
PB)リアル・タイムで聴いたことは?
聖子)レコードが発売されてからは、常にラジオを聴くようにしてたんですね。自分の曲を聴きたいから。で、家にいてラジオをかけていたら、夕方でしたね。電話拭いたりとか掃除してるときに…。それですぐにいろんな人に電話しちゃって「聴いて、聴いて、今すぐ聴いて」みたいな。

 このようにして松田聖子は米国での活動に取り組んだ訳だが、今から振り返ると一番の成果は、現地の生活に馴染み、自分の意志で生きることを学んだことだ。そして、現地アーティストの活動を参考に自らのイメージ作りを進めた成果として、セルフ・プロデュース・アルバム1992 NouvelleVagueの発表に至るのである。参考にしたイメージがマドンナだったことについては、外野からはあれこれと異論が出されるのだが、そのこと自体は松田聖子の人生において大きな問題ではない。それよりも、自分の意志と力で活動を継続する基盤を固めたことが重要である。そのことこそ、松田聖子が今日まで活動を継続してきた原動力であるからだ。

 1991年1月初頭の朝日ジャーナル連載記事「下村満子の大好奇心」を見てみよう。

聖子)アメリカで成功するのが、どれだけむずかしいか、行ってみて、もう身にしみましたね。だからこそ、よけいに面白いし。一度始めたんだから、もうとことんね。インターナショナルとしてやっていきたいと。時間がかかっても。
下村)わかる気がする。ニューヨークって、ほんと、エキサイティングな街ですものね。あの緊張感がいい。こわくて孤独な街なんだけど、何かこう、何でもできるような気がして元気になる。
聖子)いつもニューヨークの空港に着くと、ホッとする同時に、「絶対、何かやらなくちゃいけない」って、毎回思う。日本にいると、映画館に行くことすらできないけど(笑い)、向こうではあらゆる映画みて、それがすごいパワーになって、「やらなくちゃ!」とか…。
下村)でも、たとえばどこかで壁に突き当たったり、挫折したり、夫婦や子どもの問題で悩んだりする自体が起こったら、どうしますか。
聖子)うーん。どの道をとるべきかというのを冷静に考えるべきでしょうね。何年かやって、これはダメだなと思ったら、私はもうそれでいいと思ってます。「やるべきことはやったんだから、ダメなものはしかたがない。もう未練はない」って、そういう生き方をしたいんです。ただ、いままだ答えが出ていない状況ですし、絶対日本人は出ていけると信じてる。分からないままやめたりすると、一生後悔しますから。

 この不屈の精神、松田聖子の生き方を、他人が自分好みに制御することはできないのである。

 さて、ちょっと話を昔に戻そう。松田聖子はデビュー当時、25歳までに結婚して、結婚したら引退するような発言をしていた。「両手で聖子」で、ある晩の夢として、聖子23歳、彼は30歳と仮想G氏を想定した自分の結婚式の光景を描いているのは笑えるが(夢の中ではG氏が結婚式に出席して祝辞を述べてくれたのが一番うれしかった、などと言い訳しているのがまた可笑しい)、それはともかく、昔は、女性にとっては婚期を逸せぬということが重要事であり、一つの専門的な仕事をやり抜こうとしたら独身を覚悟してかかる必要があると言われたものである。松田聖子も何の疑問もなく、そうした価値観を受け継いでおり、世間もなんら異議を挟まずに松田聖子の発言を受け止めていた。松田聖子がデビューした年に山口百恵が結婚して引退したとき、祝福こそあれ、批判めいたことはなかったわけである。果たして、松田聖子が神田正輝と結婚したときも(G氏とのあれこれで一時的に騒然とした時期はあったが)、祝福ムードに包まれていた。ところが、結婚出産を経て再度歌手に復帰したときには賛否両論が現れ、さらに米国進出を発表するや、妻としてどうなんだ、母としてどうなんだということで、さらにバッシングの嵐が吹き荒れた。同じトップアイドルだった山口百恵のように結婚引退後は家庭第一があるべき姿で、松田聖子の行動は社会通念に反しているというわけである。そうした日本の風土に対抗する強い意志を持って人生を進むことは、容易ではなかったはずであるが、松田聖子はそうした風土を確信的に笑い飛ばしている。

下村)日本の芸能マスコミで、あなたほど悪女扱いされてる人って少ないでしょ(笑い)。バッシングされるのは海外に行ったから?
聖子)分からないです。でも私はいつも新しいもの、新しいものって、違うことをやっていくから。常におとなしくしていない。
下村)山口百恵ちゃんと違う。
聖子)もう全然、正反対ですからね。そういうことが美しいと言われる日本の社会では、私はすごく珍しい存在でしょう(笑い)
下村)自分がしていることが、理解されないと寂しい?
聖子)そうですね。でも、私はもう何も言うのをやめようと思って。黙ってやって、成功することに価値があるんじゃないかと思いますから。それが私の答えっていうか、やりたかったことですよ、っていう。
下村)いちいち弁解しないことに決めた?
聖子)ええ。言う必要ないんじゃないかなって。どんなに誠意をもって話しても、絶対その通り理解してくれないし。だから、もうやめたって。こういう考え方ができるようになったのも、アメリカへ行って、普通の人になったおかげです。それが正しくないかもしれないけど、自分はそうしていこうって決めた。
下村)アメリカへ行って、独立心の強い女性になったのね。でも相当しんどいことでしょう?
聖子)大変でしたね。でも、もう私のやりたいことをやっていくんだって。一度そうやって始めちゃったから、後には引けない。
下村)うーん。なあるほど。

 こうして、マスコミとのコミュニケーションをやめた代わりに、90年代以降のアルバムの中で何度となく自分を鼓舞するかのような歌詞で自分の思いを表現するようになった。ただ一度の人生をどう送るかは自分で決めるという強い意志である。

 90年代以降のセルフ・プロデュース・アルバムを見ていくと、そのセルフ作品は大きく三つに分類できる。第一は、男女の恋愛模様を描いたもの。第二は、人生の戦いを乗り越えるための自分自身も含めた応援歌。第三は、家族愛や友愛、さらに言えば人類愛を描いたものである。

 松田聖子の描く男女の恋愛模様は、松本隆の繊細な世界ではない。もっと直接的である。松本隆が松田聖子のパフォーマンスを評して「うれしさを全身で表現する」といったように、松田聖子の恋愛歌詞は、なんの遠慮もなく、時には男女の性愛にまで踏み込んで恋愛感情をストレートに全身で表現している。80年代に歌ってきた男目線で発想されたキュートな恋愛模様とはずいぶん異なり、もうただの可愛い「聖子ちゃん」ではない。いや、これが女性目線で見た大人の恋愛模様で、それを手に入れるのが現実の女性であって、その演出として可愛さがあるのかもしれないが、私の固い脳みそには手に負えないので、この分析は女性に任せよう。失恋して一瞬沈んでもすぐに立ち直るところは80年代の聖子ソングのままであり、これが女性の本質なのかと思ったりするけれど。

 第二の応援ソングは分かりやすい。人生における数々の困難に対して、決して負けないとの意思表示である。この応援ソングは、松田聖子が理不尽なバッシングに耐えてきたからこそ、他人に異論を挟ませない説得力がある。困難を糧にさらに強く生きるのは、80年代の超人的スケジュールを食べて栄養にしていると言っていた聖子ちゃんそのものである。

 第三の作品群、家族愛や友愛、人類愛を描いた作品であるが、私はこれがもっとも松田聖子の歌唱が生かされる作品群と思っている。音楽的には、バラード表現になるのだが、切々とした祈りや感謝を伝える歌に松田聖子の声質がピタリとはまって、聴き手の感情に迫ってくるのだ。それは若い頃の「瑠璃色の地球」で証明されていることである。松田聖子自身の持って生まれた性格に母性的な感情が奥底に眠っていて、愛情豊なご両親に育てられたことで、その母性がまっすぐ育まれ、それを歌で表現するときに自らの内から湧いてくる感情を素直に表現できるのではないか。この分野の最高歌唱が、セルフ作品ではないが「Put Our Hearts Together」であることに異論はないであろう。

 「一業50年」という。20代は人生における基礎作りで、論語にいう「三十にして立つ」つまり30代からが本当の活動期であって、定年による束縛がない人々の場合、その活動期は60代の終わりまで活動期が続くことが多い。さらに優れた一部の人々は、70代に入っても衰えぬ場合が少なくない。一つの職業に従事して30年もやり抜けば、一応その道に通じて熟達するが、真にその道の奧妙に達するには50年はかかるという言葉である。

 歌手の様に肉体条件が重要な職業の場合は必ずしもそういうわけにもいかないが、松田聖子の40周年は、最初の10年間のアイドル期を除外してもすでに30年の活動期を全うしたということである。まだまだやる気満々の人だが、40周年を祝福しつつ、最後に以下の言葉とともに今後の活躍を見守っていきたい。

人間の一生

職業に上下もなければ貴賤もない。
世のため人のために役立つことなら、何をしようと自由である。
しかし、どうせやるなら覚悟を決めて十年やる。
すると二十からでも三十までには一仕事できるものである。
それから十年本気でやる。
すると四十までに頭をあげるものだか、それでいい気にならずにまた十年頑張る。
すると五十までには群を抜く。
しかし五十の声をきいたときには、大抵のものが息を抜くが、それがいけない。
「これからが仕上げだ」と、新しい気持ちでまた十年頑張る。
すると六十ともなれば、もう相当に実を結ぶだろう。
だが、月並みの人間はこの辺で楽隠居がしたくなるが、それから十年頑張る。
すると、七十の祝いは盛んにやってもらえるだろう。
しかし、それからまた、十年頑張る。
するとこのコースが一生で一番面白い。

 松田聖子の中には楽隠居などみじんもない。この言葉のとおり、まだまだ10年は頑張ってもらい50周年を迎える姿を見たい。最後のコースを私が見るのはかなわないかもしれないが、松田聖子はきっとやってくれるだろう。
最後に、一つだけリクエストしようか。
 聖子ちゃんが高校生の時、九州地区大会の最終審査で「なんでも歌えます」って言ったことを覚えてるかな?
数年前からSeikoJazzを始めて、アメリカン・スタンダードのレパートリーを拡大中だと思うけれど、さらに世界を広げて、古いシャンソンとかヨーロッパ系の名曲を取り上げることも計画の中に取り込んでもらえるとさらにバラエティに富んだ活動ができるようになるはずなので、そんなことも頭の片隅に置いて、なんでも歌える聖子ちゃんを見せてほしいんだよね。

2020年3月20日




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