甘い接吻
〜時代劇浪漫譚妖恋話−其之六〜
最近、レオニスは朝から出かけることが多くなった。
いや、それだけなら別にシルフィスも気に留めることはないのだが、帰ってきた彼の着物から、かすかに女の香の匂いがするのである。
毎回決まった香りではないが、明らかにレオニスのものではない。彼に抱かれる宵も、そのことが心のどこかで引っ掛かっていた。
(浮気……なんてことないよね)
もしそうであっても、自分には何も言えない。妻でも許婚でもないからだ。この御時世、一途な男はむしろ甲斐性がないと言われるほどである。しかもレオニスは老舗の骨董屋の若旦那という、この辺りでも有数の商人であり、金もある。もちろん、表向きの顔は、であるが。
レオニスが浮気をするとは信じがたいが、女の香が着物に移っているとなると少々話は違ってくる。彼は寡黙であるが故に近寄りがたい雰囲気があるのだが、実は得意先の娘やはたまた武家の御令嬢にまで、憧れの的となっているのである。それを知っていたシルフィスは、内心気が気ではなかった。
そんな日が幾日か過ぎた頃……
「出かけてくるが、留守を頼む。」
「はい、いってらっしゃいませ。」
いつものようにレオニスは番頭に一言言ってから、店を出た。
そこへ、こっそりと裏口から出る者約一名。
(ばれないように気をつけなくちゃ……)
シルフィスは気配を消してゆっくりと後をつけていった。やはり、気になって仕方がなかったのである。少々やましい気持ちはあるが、そんな気持ちは不安に打ち消されてしまっていた。
「若先生〜〜〜〜。」
不意に若い娘が軽い足取りでレオニスのもとに駆け寄ってきた。
シルフィスはあわてて物陰に隠れ、そっと様子を覗った。
「こんなところでお会いできるなんて!御一緒してもいいでしょう?」
(何っ!?)
見れば娘は馴れ馴れしくもレオニスの着物の袖を引っ張って、一緒に歩こうと誘っているようであった。
レオニスは前を向いているので、後ろにいるシルフィスからは表情が見えなかった。
嫉妬で一瞬全身が硬直したシルフィスは、今にも飛び出して「旦那様に触るな!」と叫びたいところであったが、辛うじて思いとどまった。そんな醜態を晒せば、たちまちレオニスに嫌われてしまうに違いない。
唇をかみ締めて見守っていると、レオニスは隣にいる娘を見て小さく息をつくと、かすかに頷いて歩き出した。その後を、娘が嬉しそうについていく。
「………。」
シルフィスはぺたりと座り込み、呆然と二人の後姿を見送った。
自分以外の女と歩く場面を、今まで見たことはなかった。
だから、他の女に嫉妬したことなどなかった。いつのまにか、レオニスには自分がいると当然のことのように思っていたのだ。
だが………。
もはや二人を追う気力もなく、シルフィスは俯いてそっと立ちあがった。
「旦那様のばか……。」
とぼとぼと帰路につくシルフィスに、そっと視線を走らせた者がいた。
他ならぬ、レオニスである。
日が落ちた頃、番頭の「お帰りなさいませ。」の声に、奥で火を焚いていたシルフィスはびくっと身体を震わせた、
衣擦れの音がし、おそるおそる振り返るとレオニスがいた。
腕を組んで、落ちついた声で言う。
「今日、何か用事でもあったか?」
「!」
真っ赤になって視線を逸らすシルフィスに、レオニスはふっと笑った。
「おまえよりも私のほうが経験豊かだ。気づかないと思っていたのか?」
「………すみません。」
他に言いようがなくて黙っていると、少し笑いを含んだ声が言った。
「まあいい。明日はおまえも一緒に来るといいだろう。時間があればの話だが。」
「えっ……。」
「気が進まないなら無理にとは言わない。」
シルフィスは慌てて首を振った。
「い、行きます!御一緒させてください。」
「そうか。出るのは昼過ぎだ。……シルフィス、頬にすすがついているぞ。」
「え……あ!」
レオニスの指がそっとシルフィスの頬を拭い、そのまま上を向かせるとさっと唇を翳めた。
「だ、旦那様!」
慌てて周囲を見回すシルフィスに、レオニスはくすりと笑いながら言った。
「私は常に機を見計らっている。心配するな。」
「〜〜〜〜〜〜!」
去って行く後姿を真っ赤になったまましばらく見つめていたが、ふと漂う残り香にシルフィスの心は冷たく沈んだ。
優しく甘い花の香り――――確かにそれはレオニスのものではなかった。
「シルフィス、用意はできたか。」
「はい、ただいま!」
シルフィスは可愛らしい小袖を着て、わずかな包みを持って出てきた。その愛らしさにレオニスも思わず目を細める。
「あの、旦那様。これは何ですか?」
レオニスはシルフィスの手からその包みを受け取ったが、少し笑みを浮かべただけで何も言わなかった。
着いた場所は、小奇麗な寺子屋だった。
驚いて自分を見上げるシルフィスにそっと微笑むと、レオニスは門をくぐった。
「若先生!」
入った途端、娘たちが駆け寄ってきた。身なりからして、裕福な商人の娘たちらしい。
レオニスは袖を引っ張る娘たちを冷たい視線で一蹴し、そばに呆然と立っているシルフィスの肩を引き寄せた。
「今日はこの者が私の助手を務める。……私の講義は今日で終わりだ。最後くらい軽軽しい振る舞いは慎んで、部屋に戻りなさい。」
「……。」
娘たちは不満そうに口を尖らせ、じろっとシルフィスを睨みつけた。
はっとしたシルフィスも、心の中に灯された嫉妬の炎に任せてきっと娘たちを睨み返した。
緊張感漂うその様を、レオニスはふっと笑みを浮かべて見つめ、娘たちを部屋へ促した。
「では、今日はこれで終わりにする。次回からは師匠が旅先から戻ってくるので、私の臨時講義は今日が最後だ。今まで世話になったな。では、シルフィス……。」
「はい。」
シルフィスがさっと手荷物をまとめると、娘たちが立ちあがってレオニスのもとに寄って来た。
「若先生〜、これからお食事に行きましょうよ。」
「せっかく最後なんですもの、ぱーっとしましょ?いつもお誘いしてもお断りなさるんですもの、最後くらいいいじゃありませんか。」
「後は助手さんに任せればいいでしょう?」
ちらっとシルフィスに視線を走らせながら、甘えた声でせがむ娘たちに、シルフィスは怒りが爆発しそうなのを必死に抑えていた。
レオニスは髪をかきあげ、冷たく娘たちを見下ろして小さく笑った。
「悪いが、別に予定がある。」
そう言うと、シルフィスを抱き寄せてその髪に口付けたままちらりと娘たちを見た。
「この者に別の講義をせねばならんからな。」
「だ、旦那様……っ。」
真っ赤になって口をぱくぱくさせるシルフィスを連れ、あっけに取られている娘たちを置いてさっさと門を出たレオニスは、しばらく歩いた後、橋の上で立ち止まってふとシルフィスに向き直った。
「おまえ、私を疑っていたな?大方、あの者たちがまとわりついた際に着物に移った香にでも惑わされたのだろう。」
「え……あ、えっと……。」
しどろもどろになって俯くシルフィスに、レオニスが小さく笑った。
「いや、私も悪かった。おまえが嫉妬してくれるのが気分良くてな、ついやりすぎてしまったようだ。すまない。」
「……意地悪です、旦那様……。」
拗ねて横を向くシルフィスのあごをもちあげ、自分のほうに向かせてレオニスは睫を伏せた。
「黙っていて悪かったとは思っている。だが、疑われるのは心外だ。」
「……すみません……。あ、旦那様、ここでは……だめ、です……。」
唇が触れそうになるのを慌てて腕を突っぱねて拒むシルフィスを、魅惑的なまなざしで見下ろすと、そのまま細い身体を抱き上げた。
「だ、旦那様!!だ、誰か知り合いにでも見られたら……。」
じたばたと暴れるシルフィスをものともせず、レオニスは抱き上げたまますたすたと歩き出した。
「別の講義があると言ったはずだ。私がおまえをどう思っているか、嫌というほど教えてやる。今夜は覚悟しておくんだな。」
「………。」
その言葉に真っ赤になりながらも、シルフィスは抵抗をやめてそっと腕をレオニスの首にかけた。
二人揃ってその日帰らなかったことについて、店の者があれやこれやとシルフィスに詮索しようとしたのだが……レオニスの有無を言わさない冷徹な視線に何も言えなかったという。
視線一つで女をオトし、周囲を黙らせる若旦那レオニス……あんたナニモノ?(by 作者)
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(裏創作です)