甘い接吻
〜時代劇浪漫譚妖恋話−其之七〜
(Written by 聖 京 さま)
その一
頃は中秋。
行灯の灯りが、小綺麗に片づけられた部屋の中を照らし出す。
柔らかな灯りの中、蜜色の髪の美しい娘が、夜着姿で文机にも垂れかけるように眠っていた。
机の上には一冊の書物。
読んでいるうちに眠ってしまったのであろう。
昼間は老舗の骨董屋に奉公する傍ら、公儀の隠密としての任務もこなし、一人の夜は書物を広げ勉学に勤しむ。
疲れて眠ってしまうのも無理からぬ事。
加えて今日の様に、一人で過ごす夜ばかりではない。
この屋の主が、時折娘の元を訪ねてきては、逢瀬を重ねる。
将来を言い交わした仲故に、当然の事ではあるのだが……。
今宵、当の主は骨董商の寄り合いで家を開けていた。
娘にとっては静かではあったが、いささかもの悲しき夜であった。
その娘の部屋の障子が音もなく開いた。
行灯の明かりが、障子に映し出したのは長身の男の影。
足音を殺し、娘に近づき身を屈める。
夜着の襟元から伸びた白い襟足。
長身の男は、引きつけられるようにそこに唇を這わせた。
……旦那様?……。
首筋を走る感触に、眠りが薄れる。
違う!
娘の目が開かれる。と同時に、自分に覆い被さる影に、拳をたたき込んだ。
こぎみ良い音と共に、拳が握り混まれる。
娘の対応は早かった。
そのまま体を滑らせ、影に向かって、夜着の裾を割り蹴りを入れかけた。
「ちょーーーーーっと、まった〜〜〜」
影が慌てて娘を制した。
娘の動きが止まる。
「その声は!」
「俺だ、俺」
男がシルフィスの拳を離し、行灯を引き寄せた。
「お、お奉行様!」
そこにいたのは着流し姿の、長く蒼い髪の男。
「ちがうだろ。この格好の時は、遊び人のシオンさんだ」
遊び人のシオンこと北町奉行シオン=カイナスは、意味ありげな笑顔をシルフィスに向けた。
北町奉行シオン=カイナスは時折遊び人の姿に身をやつし、城下を歩きまわる事があった。
事件の捜査の為とも、本当に遊んでるとも言われてるが、真偽のほどは明らかではない。
ちなみにこの男、体に傷を付けるのが嫌いなので、桜吹雪の入れ墨はない。
「い、いったい、どうなさったのですか、こんな時間に」
慌てて夜着の裾をなおして、居住まいを正す。
「ああ、お前さんに頼みたいことがあってな」
「私に……ですか?」
「そう、おまえさんとレオニスに……」
シオンの顔色が一瞬で変わって、しゃがんだ姿勢のまま身を翻した。
さっきまでシオンがいた場所の後ろの障子が、斜め横にまっぷたつに切れる。
「わっ」
「く〜危ない、危ない」
「これはこれはお奉行様。良くお越し下さいました」
「その格好でそれを言うか?!」
二つに切れた障子の向こうには、刀を振り下ろした姿のこの屋の主レオニスの姿があった。
「こんな時間に若い娘の部屋に来られるのは、感心しませんね」
「お前も来てるじゃないか」
「自分の嫁になる娘の所に通って何が悪いんです?」
「かーっ、ぬけぬけと」
「旦那様、お帰りになってたんですね」
シルフィスが嬉しそうにレオニスに駆け寄った。
そのあどけないほどの笑顔を見て、さっきまで眉間に皺を寄せていたレオニスの顔もほころぶ。
左手に持った白木作りの鞘に刀を納め、それをシルフィスに差し出した。
シルフィスが、夜着の袂で包むようにしながらそれを受け取る。
受け取ったシルフィスを、レオニスはそのまま抱き上げた。
レオニスの腕の中にのシルフィスが、小首を傾げた。
「旦那様?」
「今日は私の部屋で休むといい。……障子がないと風邪をひく」
「お前が叩ききったんだろ」
「おや、お奉行様、まだいらしたのですか」
「さっきから、ずっといるだろうが。だいたい俺はまだここに来た用件を言ってない」
「用件?夜這いではなく?」
「レオニス、お前相当怒ってるな」
顔色一つ変えずに、皮肉をとばし続けるレオニスに、シオンが呆れたように言った。
「別に……で用件と言うのは?」
「明日、上様と姫がお忍びで芝居見物に出られる。お前とシルフィスに護衛について欲しい」
「お忍び……?お止めしなかったのですか?」
「上様は俺がお忍びの事を知っていることを知らん。それに、たまにはセイルにも息抜きをさせてやりたいしな……。 芝居見物のことは今日、芝居の席を手配した右筆が泣きついてきて知ったんだ」
「右筆……アイシュ様ですね」
「そういうこと。頼めるか?」
「仕方ありません。でどの小屋です?」
「中村座。青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)を見に行くそうだ」
「分かりました。アイシュ様にはシルフィスも世話になっていることですし」
「世話?」
「あの……えーっと、時々手作りのお菓子を頂いてます」
レオニスの腕の中の、シルフィスが照れたように応えた。
「…………まあいいか。頼んだぜ」
「かしこまりました。それでは失礼」
シルフィスを抱いたまま、シオンに背を向けようとした。
「おい、この家では客に茶もださんのか?」
「昼間に表からいらっしゃれば、いくらでもお出しします。夜中に奉公人の部屋に忍んでくるような方に出す茶はありません」
「奉公人のじゃなくてシルフィスのだろうが」
「お分かり頂いて恐縮です」
「心配しなくていいぜ、ちょっとなめてみただけだ」
「なっ……!」
「シ、シオン様!」
「じゃあな」
こめかみに青筋がたったレオニスを見て、シオン不適な笑いを浮かべると、縁側から庭に降りて闇の中に消えていった。
「……あの方は……」
レオニスの口から、小さく歯ぎしりが聞こえた。
「あ、あの旦那様……」
シルフィスが恐る恐るレオニスを覗き込む。
「何をされたんだ?」
「えっ、そんな、なにもされてないです。ちょっとうたた寝をしているときに首筋に……」
「こうか?」
レオニスがシルフィスの細い首に、唇を落とした。
「ひゃ」
思わず悲鳴を上げた。
レオニスの乾いた唇が触れた部分から、体が熱くなる。
少しだけ肌を這い、唇が離れた。
「だがあの方のことだ。お前が眠っている間に何をしたかわからん。なにか変な事をされてないか、私が調べてやろう」
「し、調べるって、旦那様?な、なんでそんなに楽しそうなんですか?!」
「そう見えるか?気にするな」
「気にします!待って下さいって〜!」
シルフィスの悲鳴を無視してレオニスは、シルフィスを抱きかかえたまま自分の部屋へと足早に歩いて行った。
その二
芝居小屋の中はうす暗い。
昨日のレオニスのお調べ(?)のせいであまり眠らせて貰えなかったシルフィスは、ともすれば落ちてしまいそうな瞼を必死で開いていた。
「眠いか?」
隣に座って平然と言うレオニスが恨めしい。
「お前さんが眠らせなかったせいじゃないのか?レオニス」
反対側の隣になぜかいる、シオンが混ぜ返すように言った。
「お奉行様……なぜあなたまでいらっしゃるんですか?」
「上様の護衛をお前さんたちだけに押しつけるのは心苦しくてな」
「なかなか愉快な冗談をおっしゃる」
少しも愉快ではなさそうにレオニスが言った。
「ばれたか。だが俺が来て良かったと思わないか?レオニス」
「思っております。まさかこれだけ怪しい輩がいるとは思いもしませんでした」
「えっ?」
シルフィスは思わずレオニスを見た。
今シルフィス達は二階桟敷席にいる。
この斜め下の一階桟敷席に、上様セイリオスとディアーナ姫の兄妹がお忍びで芝居見物をしていた。
「シルフィス、お前ではまだ気づけないだろうな……。向かいの一階桟敷席に二人、花道の脇に二人」
「セイル達と同じこちら側の桟敷席に、セイル達とは離れているが二人……そうだなレオニス」
「ご明察です。全部で八人……殺気を持った人間がいますね」
シルフィスは目を見張った。
自分は全く気づいていなかった……。
隠密としてまだまだ未熟な自分を恥じ入るしかない。
「芝居小屋の中では事を起こすまい。逃げ場がなくなるからな」
「上様のお命を狙うなら、外に出て……気の緩む帰り道でしょうね」
「俺もそう思うぜ。と言うわけだ、シルフィス。ここにいる間は芝居見物をゆっくりしていていいぜ」
「そんな……」
刺客がいる以上、もう芝居見物所ではない。
「上様にお知らせしなくていいんですか?」
「我々が迂闊に上様に近づく方が危険だ。刺客の存在には恐らく上様も気づいていらっしゃるだろうし」
シルフィスはそっと、斜め下のセイリオス達を見た。
町娘姿のディアーナは無邪気に芝居を楽しんでいるが、貧乏旗本の三男坊姿のセイリオスは、心無しか表情が硬かった。
「シルフィス、焦るな……いいな」
「は、はい」
レオニスが着物の袂で隠すようにしながら、シルフィスの手を握りしめた。
シルフィスは自分の手に汗がにじんできているのに、そうされてやった気づいた。
「勝負は外に出てからだな」
シオンの言葉にレオニスも頷く。
「シルフィス、刺客の方は私とシオン様で何とかする。お前は姫の身をお守りしろ」
「はい」
握りしめられた、レオニスの大きな手に勇気づけられるように、シルフィスが力強く返事をした。
続