「いけません、宮。少しは御琴のお稽古をなさらないと主上に御叱りを受けますよ。」
「むぅ。もう飽きてしまいましたわ。」
「まあ、そんなことおっしゃってはなりません。」
几帳の影のやりとりに、参内したシルフィスは苦笑した。
「宮……あまり女房殿を困らせてはだめですよ。」
「シルフィス!」
ディアーナの顔がぱっと輝く。
「待ってましたのよ。おまえたちはもう退がりなさい。さ、シルフィスこっちへ来て。」
心配そうな表情の女房たちに目配せをしてかすかに頷くと、女房たちもほっとしたように一礼して去っていった。
「いつもいつも御稽古御稽古って。疲れてしまいましたわ。」
「もうすぐ主上が宴を開かれるとのことですからね。宮の御琴を楽しみにされているのですよ。」
「……シルフィスは、御琴上手ですの?」
「上手かどうかはわかりませんが……人並み程度にはできます。」
「では、シルフィスが教えて下さればよろしいのですわ。」
「ええ!?」
突然のディアーナの言葉に、シルフィスは慌てた。
「ちょ、ちょっと待って下さい。私は宮にお教えできるような腕は持ち合わせていません。」
「いいんですの。楽しみながら御稽古するのが上達の早道と言うではありませんの。決まりですわ。」
「み、宮……。」
言葉はさすがに雅やかだが、中身はメイと似たようなものだ……とシルフィスは苦笑した。
(宴か……あの御方もいらっしゃるのかな……)
思いを馳せるのは黒髪に青い瞳の殿方………
「シルフィス、ほんと何でもできるんだねー。どっちが宮さまだかわかんないよ。」
おかしそうに言うメイに、ディアーナはぷうっとふくれた。
「神さまはずるいですわ。わたくしには何にも与えて下さらなかったのに、シルフィスにはすべての才能を恵んでいらっしゃるのですもの。不公平ですわ。」
シルフィスは照れたように笑った。
「そんなことありませんよ。何もない村で過ごしていたので、こうして時間を潰すことが多かっただけです。」
とはいうものの、琴の腕前はかなりのものである。女房たちもうっとりと聞きほれていた。
「尚侍、素晴らしいですわ。当代一、ニを争うといっても過言ではないほどです。」
「東宮さまにもきっと御気に召していただけるでしょう。」
「え?」
東宮の名に、シルフィスは手を止めた。
「東宮さまは音楽が御好きでいらっしゃるのですか?」
「大好きですのよ。名手がいれば、誰彼構わず呼びつけて宴を開きますの。困ったものですわ。」
ディアーナはため息をついた。
「だから妹の私にもこんな厳しい御稽古を強いるのですわ。御自分がおやりになればよろしいのに。」
「まあ、宮。そんな御言葉使いはなりません。後の今上になられる御方になんてことを。」
眉を寄せる古参の女房たちを慌ててとりなすと、シルフィスは優しく言った。
「宮の上達ぶりを御覧になれば、東宮さまもきっと御喜びになります。そうすれば、以前からお願いしていた絵巻物もすぐに御取り寄せ下さるかもしれませんよ。」
群青色の瞳がぱっと輝いた。
「そうですわね!私、頑張りますわ。」
いつもながら鮮やかなその手綱さばきに、女房たちは感嘆の笑みを浮かべた。
可愛らしいが少々我侭なディアーナ。彼女の首を大人しく縦に振らせることができる者など、シルフィスとメイ以外にはいないのである。
月の美しい夏の夜、宴は盛大に催された。
「今宵は二の宮の琴を聴かせてもらえるのだったね。」
セイリオスの言葉に、ディアーナはびくっとして身体を強張らせた。
「シ、シルフィス〜〜。緊張してきましたわ……。」
「大丈夫ですよ。私も一緒に弾きますから。」
励ますように微笑むと、ディアーナも小さく息をついてにっこりと笑った。指の先から、美しく流れるような旋律が紡がれていく。
村にいたころ、母親に習ってよく琴を弾いていた。静かで優しい音色が心地よく、とても好きだった。
御簾の外では、ため息が漏れる。
「素晴らしいですね。さすが二の宮さまであらせられる。」
「私も驚いたよ、宮。誰に習ったんだい?」
感嘆の声の中、ディアーナとシルフィスは顔を見合わせてくすりと笑った。「わ……月が綺麗……。」
宴が終わり、退がったシルフィスは、ひっそりとした桐壺に一人でいた。宴の間はここから最も遠い場所にある。
御簾を上げると、美しい満月が煌煌と輝いていた。
(……御姿を拝見することはできなかったな)
御簾の中からでは、誰かを探すことは難しい。せめて声だけでもと思ったのだが、ざわめきの中ではそれもかなわなかった。
琴の音を聴いてくれただろうか。
レオニスがいると思って、心をこめて弾いたのだ。
剣を持つ自分ではなく、こういう女性としての自分も見て欲しかった。
……何故だかはわからない。だが、自分をもっと知って欲しかったのだ。
「会いたい……のに……。」
口から零れた言葉に驚く。
どうしてこんなに彼に会いたいのだろう。彼が宿直する日はもうすぐだ。なのに、それまで待っていられないほどのこの思いは何なのだろう。
月がぼんやりと翳んできた。目の奥が熱い。
そのときだった。
「……その涙は誰がためのものです?」
驚いて振り返ると、想う人がそこにいた。
月の冴え冴えとした光が、青く澄んだ瞳を照らしている。
「中将さま……。」
「夜風は身体に毒です。月を愛でるのもよいですが、ほどほどになさらないと。」
「……何故、ここに……宿直は二日後では?」
「東宮さまに引き止められまして。笛を御聞かせしていたのです。」
見ると、手には細く品のよい細工の笛がある。
「今宵の宴の琴は素晴らしゅうございました。宮さまを御指南されたのは尚侍殿ですね?」
「はい。あの………名を呼んではくださらないのですね。」
ここは内裏だ。気安く彼が言葉をくだけさせられないことはわかっている。
だが、言いようのない寂しさがシルフィスの心を沈ませていた。
「………今は御許しを。」
「………。」
青い瞳が伏せられる。
「今は……あなたの剣の指南役ではありませんので。」
「………。」
外はしんと静まりかえっていた。わずかな物音も聞こえない。
互いの息遣いさえ聞こえそうだ。シルフィスはすっと目を逸らせた。
「宴にいらっしゃるとは存じ上げませんでした。御簾の中からでは外の様子はわかりかねますので。」
「そうでしょうね。でも、琴の音は伝わる。」
「え?」
「宮さまと重なるようにして寄り添っていた音色……。あの場にいた者たちはわかったはずです。琴の音に秘められた、あなたの澄んだ心を。」
「………。」
思いがけない言葉に再びレオニスの顔を見ると、彼ははっとしたように唇を噛んだ。
「……失礼、酒が過ぎたようです。では、私はこれで。」
そのまま身を翻そうとするレオニスを、シルフィスは慌てて呼びとめた。
「待って下さい!……今度、笛を御聞かせ下さいませんか。」
再び青い瞳がゆっくりと振り返る。
シルフィスは俯いた。
「剣を持っていないあなたも……知りたいんです。」
「………。」
レオニスは満月を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「……思わず声をかけてしまいました。」
「え?」
顔を上げると、視線が結ばれた。
じっと見つめるその瞳に、シルフィスは身動きできなかった。
「このような時刻に、このような場所で宮仕えの姫君に声をかけるなど……怪しまれても仕方ない振る舞いです。ですが、声をかけずにはいられなかった。……そのまま月の光の中に溶けてしまいそうな黄金色の髪がなびくのを見て……天に帰ってしまう乙女のように消えてしまいそうだと思いました。」
「中将さま……。」
「……天女を引き止めるは愚かなこと。天の怒りを買うかもしれないと恐れながら……それでもこの地に留まって欲しい……思わず手を伸ばしてしまいそうになる。」
「………。」
「今宵のあなたはそんな儚くも危険な風情を漂わせていらっしゃる。……間違いが起こらぬよう、部屋に戻られた方がよろしいでしょう。……月の姫。」
「!」
笛はいずれまた、と言い残し、レオニスは去っていった。
「………。」
御簾の中に戻り、シルフィスは几帳に寄り掛かった。
『月の姫』………姫、と呼ばれた。
殿方に姫と呼ばれたことはない。村では身近には家族と女房たちしかいなかったし、宮仕えしてからはずっと『尚侍』だ。
甘い響きを秘めるその呼び名に、シルフィスは切なさで胸が締めつけられそうになるのを感じていた。