隔週連載 公開日誌
“鉄槌よ、語れ!”
                    詩人 海老 正広














村上春樹の新作

大統領選・その愛
ゴー、ナベツネ
恐るべき子供たち

素晴らしき「自己責任」

地獄の表示録
表現の自由と商業主義主義


{「ついに最終回!」

女性の敵」
「渡る世間はノーフューチャー」
^「バカの壁ネイキッド」
「現代の悪魔を論ず」
「国連の黄昏」
「平和の理念と現実」
「米国を孤立させるな」
「インディペンデンスデイ」
「新編いろは歌留多」
「正義は売り物か

「ニューヨーク紀行」
「夜このパンセ」
「友愛の裏側」
もう一つの国民の歴史」
「現代的犯罪について」
「ポピュリズムとは何か」
「日本よ汝自身を知れ」
「カナリヤの悲鳴」
「女は世界の奴隷か」

「生命政治について」
「絶望への復帰」
「曲解論語集」
「小林よしのり氏への手紙」
「室内楽のパンセ」
米百俵の経済を語る」
「第三の旗をたてよ」
「小説のエロース」
「タンギー爺さん」
「偽善のススメ」
「八月十五日」
「教科書問題の本質」
真紀子待望論を駁す」
なぜ殺人はいけないか」
「脱ゴーマニズム宣言」
「 森続投を訴う」
「新編いろは歌留多」
「 ジョン・レノンは聖人か、悪人か」
「言葉、言葉、言葉」
「 債権放棄の鼠穴」
「 運命のプロトコル」
「 神の国」
「葉」
「 『国民の歴史』を読む」
「私の見た田中角栄」
「エリートの敗退?」
「茶髪ピアスと国際政治」






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村上春樹『アフターダーク』を読む 

                                   

同級生に松田君という面白い人がいる。「じーさん」という渾名なんだけど、その名に反して、むかしから非常に流行に敏感で、いつも私のことを原始人のようにいう。

かれの価値観は単純な二元論にもとづいている。新しく、若く、自由なものは良く、古く、年老いて、形式ばったものは悪い。古いロックンロールやパンクをいまだに聴いているという理由で、いつも私を馬鹿にし、哀れな奴だとおもっている。ただしポストモダニズム以降、こういう二項対立の思想は古いものとして否定されたので、かれ自身気つかぬうちに、思想的には私とおなじ原始人の組に入っているわけである。それをおもうと私はいつもほくそ笑んでしまう。

しかし真面目な話、表現者がつねに時代の先端でありつづけることは至難の業である。鑑賞者ならば、新しいムーブメントに追随するのは、糸の切れた凧が風に吹かれて飛んでゆくようなもので、松田君のように最先端の人間になるのも、さほど苦労はいらない。

ロックンロールやパンクが最先端の時代もあった。同様に「ハウス」だって、のちには「最先端の時代もあった」と評されるときが来るのである。ジョー・ストラマーのいうように、「一度シーンをつくった人間は、二度とそこに戻ってくることはない」

ところが村上春樹の新作を読むと、作家生活二十五年にして、また新たな実験をはじめたことがすぐに解る。物語の語り手は、「私たち」という人称を使用するのである。たとえば、

「私たちはデニーズの店内にいる」というぐあいである。

おそらく作家が作品にとりかかるときに第一に考えるのは、その小説の視点をどこに設定するかということなのだが、『アフターダーク』ではそこにまずポイントがある。形式的にいえば、「私」という語り手をつくる場合と、語り手は姿を消し、登場人物の行動を客観的に描写していく場合とがある。一人称小説と、三人称小説といわれている。たしかマキナニーが試していたとおもうが、「君はマンハッタンのカフェにすわっている」というような、二人称小説というのもある。

私は「私たち」という小説の視点を新しいとおもったが、読んでいくとなんのことはない、つまりは「カメラアイ」といって、映画をみるように読者を誘導する、芥川やフォークナーが得意とした手垢のついた技法のヴァリエーションにすぎなかった。しかもそれが、作者のアリバイづくりに使われているフシがある。

各章の冒頭に時計盤の絵がついていて、夜中の午前零時前から朝の七時までの出来事を何人かの登場人物の行動を通して、時間をおって描いている。

『アフターダーク』という書名は、そうした真夜中の時間帯と、人間の精神の地下の暗室を示唆しているようだ。それぞれの人物は、夜が更けるとともに自己の地下世界に降りてゆき、昼間の明るい時間には覆い隠されている自己の真相に出会う。

人間は生へのつよい欲望を抱いている。しかし同時に、それと呼応する死への欲望を隠しもっているのだ。現代の病いの根源は、そうした地下の欲望をみとめようとしないところにある。作者はそう語っているように、私にはおもえる。

しかし、いつものように村上春樹の主人公は大人になりきれない「子供」ばかりである。真の『アフターダーク』は、大人のものであるべきではないか。福田和也は、この小説は作者が新たな段階に踏み出したことを示していると評していて、たしかにそうなのかもしれないが、作者の孤独な魂を託す対象が少年にかぎられるうちは、私にとっては読むに値しない。作者のアリバイづくりの失敗は、この小説の致命的な欠陥を暴露していると私にはおもえる。

米大統領選、その愛

前回、プロ野球界の再編問題について書いたところ、この欄の執筆者の一人でもある吉井純起さんに、お説ごもっともだけど愛がない、となじられた。恥ずかしい話だが、愛がないというのは、じつのところ私によく浴びせられる批判なのである。

愛って何だろう? 愛はいつも私をおびえさせる。私は冷血漢なんだろうか。

正直いって、私のような落伍者が、このような場所でエラソーに文章を発表するのも心苦しい次第なのだが、それでも書くときは、可能な限り脳髄をしぼって考える。そして、これでもいい文章書こうと、けっこう努力しているつもりである。それが不肖私のせめてもの愛のかたちである。

しかし、私は知っている。愛とは、そんな消極的なものではない。それは激しい理想主義である。自他をかえりみぬほどに高められた理想主義だけを、愛といいうるのである。

巨人前オーナーのナベツネ氏も、愛がないと非難されているのだが、私はかれほど球界の将来を心配して行動している人はいないと思う。それにくらべて、選手会や他のセリーグのオーナーは現状維持をもとめるだけで、球界を改善しようという意志もビジョンももってはいない、というのが前回の私の文章の趣旨である。だが問題は、ナベツネ氏の理想は巨人を中心とする球界の興隆であるのだが、いまのプロ野球をダメにしているものこそ、その巨人中心主義にほかならないという事なのである。でもその点では、選手会も他球団のフロントも共犯関係であるというのが真相だ。
 つまり、私がいいたかったことは、ナベツネ氏を批判するなら、かれを超える理想を提示せよという事に尽きる。現状維持には愛もへちまもない。
 いささか話はとぶが、ニュースステーションをみていたら、古舘伊知郎が、民主党の岡田新代表に、憲法を改正して日本の平和主義をすてるつもりかと、噛みついていた。これは誇張ではなく、まさに噛みつきそうな勢いで食ってかかったのだ。これもかれなりの理想主義あってのことだろう。
 ところが私は、日本にいまだかつて、一度だって平和主義など存在したことがないのを知っている。戦後の日本は、他国が侵略されようと、自国民が拉致されようと、旅客機がハイジャックされようと、自分の安全をはかるだけの事勿れ主義を通しただけであり、それはおよそ理想の名に値しないみにくい処世術であった。
 いま米国では大統領選にむけて、はげしい鍔迫りあいが展開している。焦点は、やはりイラク戦争の評価であろう。マイケル・ムーアのような先鋭的な反対派はべつにしても、平均的な米国民のあいだにも迷いが生じている。この戦争ははたして正しかったのか?
 むろん、米国はフセインにたいして何もせずにすませることもできた。日本政府なら文句なしにそうしただろう。しかし米国の理想は自由と民主主義を世界に広めることであり、ブッシュ大統領はみずからの理想にもとづいて、フセインの全体主義国家打倒を選択したのである。
 それならば、どうして罪のないイラク国民に多大な犠牲者がでたのか。解放者であるはずの米軍が、かくもイラク国民から嫌われなければならないのはなぜなのか。ナベツネ氏と同様、何かすればするほど、結果的に嫌われるのである。ブッシュ政権も、米国中心主義とその手法について反省すべき点は少なくないと思われる。
 しかしながら、それにもかかわらず、ブッシュ氏が再選されるにせよ、ケリー氏が勝つにせよ、米国大統領には行動する人であってもらいたいと私は考える。なぜならば、愛は行動の中にしかないからである。

人間が不完全な存在である以上、行動は軋轢を生じる。が、それにもめげず、嫌われようと憎まれようと、相手のためになると信じることを行う。それが愛というものではないだろうか。


ゴー、ゴー、ナベツネ

さいきん何かと話題のプロ球界再編問題でも、ナベツネこと巨人の渡辺オーナーは、存分に「老害」ぶりを発揮し、世間の顰蹙を買っている。メディアはかれを悪役の意地悪爺さんに仕立てて囃したてる。選手会は、因業爺にしいたげられる善玉というわけだ。

「たかが選手ふぜいが、何をいうか」

たしかに問題発言だが、かならずしも私は、ナベツネさんの発言を、たんに口の悪い我儘な老人の言としてしりぞける気にはなれない。というのは、選手会のいっていることは、あくまで現状維持の凍結案にすぎず、将来のビジョンを欠いているからだ。
 問題は大きく分けて二つある。プロ野球人気の下降と、それに反比例する選手の年俸の高騰。これらがプロ野球構造赤字の元凶である。選手会はこの二つの問題に正面から取り組んでいるとは、お世辞にもいえない。かれらの凍結案を受け入れる余裕などないくらい、事態は深刻なのだ。
 現在のところ、ナベツネ氏は西武の堤さんと組んで一リーグ・十チーム案を推進しているが、それにたいして、巨人をのぞくセ・リーグ5球団は二リーグ制維持案を主張し、真っ向から対立している。
 セ・リーグが反対するのは、一リーグ十球団ということになれば、パ球団が毎年背負ってきた巨額の赤字が、セ球団にも均等に割り当てられることになるからだ。
 セ球団のドル箱は、巨人戦での観客動員と放映権料で、とりわけ巨人戦の放映権収入は「一試合一億円」といわれている。年間、巨人戦の主催試合が十四試合あり、それだけで十四億円の収入なのだが、これが十球団になれば六試合減り、六億円の減収となる。当然、巨人だのみの観客動員数も大幅に減り、一リーグ化すれば赤字幅は十億円を超える規模で拡大することが予想される。
 現在、十二球団中で黒字を計上しているのは、人気のある巨人と阪神、堅実経営に徹する広島。たったの三球団だ。球界全体を考えた場合、十二球団連結で、約百五十億円の赤字といわれている。球界の総収入は、総支出にたいして大きく不足しているのである。
 とりわけ、ダイエーをのぞくパの五球団は、いずれも年間三十億円超の赤字と推定されている。これまでは、親会社の「広告宣伝費」として補填されてきたが、FA権の行使による年俸の高騰のために、それも限界をこえた。もはや損失額は、総収入を超える額に達している。
 ロッテの重光オーナー代行は、ロッテの約三十億円の球団収入にたいして、人件費の比率は百%を超えていると発表しているが、他のパ球団も事情は同じだろう。近鉄は、約四十億円の収入にたいして、去年、中村とローズだけで十億円の年俸を支払った。
 その中村ノリにしても、どれほど派手なホームランを打ち続けても、それがガラガラの大阪ドーム外野席であるとすれば、五億円もの年俸を要求することにまったく矛盾を感じないのだろうか。選手会は二リーグ制維持のための署名活動なんぞしているようだが、それはつまり、このまま赤字垂れ流しの体質を温存しようという運動でしかない。私だったら、赤字になれば、まず自分の給料を下げる。そんなの経営者とすれば、当たり前のことだが、選手にはそういう感覚はないようだ。たぶん、数字をみるかぎり、人件費を半分くらいに圧縮しないと利益は見込めないだろう。
 プロ野球界は過剰な人件費のために、構造的な赤字体質に陥っていて、しかも、Jリーグやメジャーに押されて、人気も下降低落気味。以前は20%台だった巨人戦の視聴率も、いまでは15%を大きく下回っている。いまの放映権料をこれからも維持できるという保証はどこにもない。
 一リーグにして、面白いカードを組めるようにしようという巨人の提案は、そうした危機感を強く反映したものに相違ない。球界全体をスリム化し、同時に密度の濃い試合を実現しようということだろう。それが唯一の解決策だとはいえないが、何の策もなくやみくもに現状維持をもとめる他のセ球団や選手会のほうが、ナベツネさんより、よほど「老害」であると私は思う。

恐るべき子供たち

 佐世保の女子児童殺害事件には、私も驚かされた。犯人は、私の娘と同年の小学六年生だった。

 犯人の児童(A子)は、背後から左手で玲美さんの目をふさぎ、右手にもったカッターナイフで喉を切り裂いたという。しかもその後、何度も顔を蹴り上げたと報じられている。殺害は数日前から計画され、いくつかの案のなかから注意深く殺害方法も選択された。その手口は、特殊部隊のコマンドさながらの荒業であり、きわめて強固な殺意と憎悪が感じられる。

 殺害方法は、『バトルロワイヤル』という小説と映画から採用されたらしいが、インターネットからもいろいろな情報を得ていたらしい。しかも被害者の女子児童とホームページを立ち上げていて、そこでのやりとりがこの事件の直接の引き金となった。

 事件の状況から、A子は比較的早熟な知性をもった児童であると考えられる。それゆえに、まだ無防備な人格のまま現代の風俗流行にさらされていた。たとえば、うちの娘なら『バトルロワイヤル』の存在すら知らないし、インターネットはおろか、パソコンをたちあげることすらおぼつかない。むろん、私がわが子のことを知らないという可能性は否定できないが、とにかくこういう犯罪をひきおこすほどの知性はないとおもわれる。

 A子の早熟な知性は、氾濫する現代の情報に自由にアクセスすることを可能にしたが、その結果、感性だけが異常に肥大し適応異常をきたしたようだ。手に入れた高度な方法論に対し、それをあやつるのに必要な人格の成長はなおざりになっていた。したがって彼女は、頭のいい子であるにもかかわらず、殺人の意味について、また殺害後の自分の人生について深く考えることはなかった。要するに、人格的には過度に幼いのである。いってみればこの事件の本質は、その残虐な外見にもかかわらず、極端にエスカレートした「子供のいたずら」にほかならない。

 この殺人は、知性と人格とのアンバランスがもたらしたものだ。現代はA子に、高度な先端技術をあたえたが、それを使いこなす人格を涵養することはしなかった。だがしかし、それは私たち大人にもいえることだ。

 現代の技術文明は私たちの生活を便利で快適なものにした反面、精神を病的なものにしている。ボタンひとつで地球を壊滅させることもできるし、スイッチひとつで、異常な欲望を充たすこともできる。事実、テレビの番組表をみるといい、セックスと暴力と食欲を主題としたプログラムの洪水ではないか。そしてそれはすべて、青少年が容易に見ることのできるものとして提示されているのだ。

 いや、それだけではない。現代人は大人も子供も、欲望をみたすために使用した装置に、逆にみずからの病的な精神を増幅させられているのである。いびつな欲望を背景とした事件が、毎日のように紙面をにぎわせている。東大を主席で卒業し著名なエコノミストとして活躍しながら、つまらぬ性犯罪に手を染めて、輝かしいキャリアを棒に振る人物まであらわれる始末である。

 技術は人間の下僕である。けれども私たちは、いつしか下僕たる技術に使われてしまっているのではないか。とはいえ、これはあくまで必然悪であり、技術の発達を止めたり、技術のうちの都合のいい部分だけとりだすということは不可能なのである。とすれば主人たる人間は、あくまで技術を使いこなすことを考えなくてはならない。そのためには、高度に発達した技術文明に対抗し得る、深い人間性というものがなくてはならない。いま私たちに是非とも必要なことは、存在の意味というものについて静かに想いをめぐらせることではないだろうか。

素晴らしき「自己責任」

                                    海老正広

 私の隣人に、曽倉哲夫という人がいる。本業は靴職人なのだが、なかなかの思想家である。今日はひとつ、かれの興味ぶかい思索の一端を紹介してみようとおもう。

 曽倉氏は、いわゆる「自己責任論」に大賛成である。

「初めて日本の政治家と意見が一致しましたね。自己責任、おおいに結構。この良き思想が社会に浸透すれば、たいがいの問題は解決したも同然ですよ」

 まず年金問題。年金の破綻はなんといっても、不備な制度をつくりあげ、でたらめな運用をしてきた政治家と国の役人に責任がある。とすれば、給付金の切り下げなんて、とんでもない。共済年金と議員年金をさしだして穴埋めするのが理の当然である、とかれはいう。

「それこそ、自己責任ですよ。そのかわり、一等地にある年金施設の数々はかれらの手に残るんだから、そう悪い話でもないでしょう。それか、年金廃止で一元化。老後の人生設計は国なんぞアテにしない。国民は貧乏しようと野たれ死にしようと、自己責任というわけです。未納ブラザースに大切な金を預けてすってんてんになるよりは、どう考えてもマシな選択ではないですか」

 道路公団民営化も、自己責任で。高速道路をつくりたがっている政治家と資本家が自己資金で建設する。

「国庫からはびた一文ださずに、完全独立採算で運営するんです。職員はもちろん、高天原から天下る専用車付の神々を採用。民営化ってのは、本来そういうものでしょう? 採算を考えると法外な通行料になるけども、かれらの説の通り、どうしても必要なものなら、それでも利用者はたんといるでしょうよ」

 いっぽう曽倉氏は、意外にも、憲法改正には反対だ。

「どうせ守らないんだから、憲法なんて改正しても意味ないでしょう」

 そのかわり、かれは銃刀法の改正を訴える。自己責任の総本山・米国なみに、銃刀の所持をみとめよというのである。

「でも、そんなことすれば、拳銃をつきつけて金品をまきあげた上に、平気で人を撃つような連中がはびこるんじゃないですか」

 ピストルやライフルの所持をみとめれば、安全どころか脅威がふえ、われわれ善良な市民がいかに身を守るかということが、ますます問題になるのではないかと私にはおもえる。

「ああ、だから私は、マシンガンはもちろん、迫撃砲、バズーカ砲なんかの軽砲から手榴弾まで合法化すればいいというのです」

 たしかにピストルやライフルは、ふだん扱いつけない者にはあまり役にたちそうもない。

「大切な家族を守るのに、拳銃なんかじゃとても無理ですよ。玄関にマシンガンと迫撃砲を据付け、ポケットには手榴弾。これならたとえ、いまいましいテロリストどもがドアを打ち破って入ってきても、五分にわたりあえるというものです」

 土木事業も年金も、治安さえも自己責任でやれば、空前の「小さな国家」が誕生すると曽倉氏は主張する。

「そうなりゃ消費税の切り下げどころか、廃止も夢じゃない」

 かれの話を聞いていて、背筋が寒くなった。これ以上政治が私たちを裏切りつづけたら、年金同様、税金も納めない人がふえ、いつかこういう世の中が現実となるかもしれないではないか。

地獄の表示録

この4月から、小売価格の「総額表示方式」が義務付けられるのをご存知だろうか。というか、もう一部のスーパーマーケットなどでは始まっている。

 たとえば従来は、蒲鉾が九十八円と書いてあれば、ふつうそれに消費税5%が加算され、総額百二円だったのだが、今度からは値札とか広告チラシなどの価格表示はすべて、消費税が加算されたあとの総額を表示しなければならなくなったのである。以前のような税ぬきの表示はみとめられない。

 なぜいまさらそういう方式を義務付けるのか。財務省のいいぶんはこうだ。

? 現在主流の「税ぬき表示価格」では、最終的にいくら支払えばよいのかわかりにくい。

? 同一の商品・サービスでありながら、「税ぬき価格表示」と「税込み価格表示」が混在していて、価格の比較がしにくい。

? ヨーロッパにおいても、支払総額の明示が義務付けられている。

 というわけで、確かにもっともな話ではあるが、それにしても、いまの表示状況になれているにもかかわらず、なぜこの時期にこのような政策をうちだしたのか、そこのところがどうも私には腑に落ちない。なにか裏があるのではないかと、勘ぐりたくなるのだ。

 なぜなら、この政策がデフレ圧力になりうると私は懸念するからである。九千八百円という値札のついた商品が次の日には、一万二百九十円となる。そのようにして、値札はいっせいに変えられるのである。実際に支払う額は同じであるにしても、値札の字面上は「値上げ」となり、イチキュッパというような値ごろ感のある値づけも困難になる。すなわち、見かけ上の「値上げ」になるのである。

 ということは、それだけ買い控え圧力を生むことになると予想される。それを避けようとおもえば、外税から内税方式に転換するほかない。しかしそれはまた経営を圧迫する道でもある。悩むところだ。

 私はためしに、業界筋をいろいろと調査してみた。

 たとえば、百円均一の回転寿司はどうするのか。百円均一の雑貨店はおおむね、百五円という表示に変わるらしいが、驚くべきことに、回転寿司業界ではまだ様子見の状態がつづいているらしい。この業界ではとくに、消費税5%を外税にするか内税にするかは、まさに死活問題といっていい。であるから、利益に余裕のあるところは内税を採用することで他社との競争力を増す戦略をとるとおもわれる。経営体質の弱いところは赤字転落をさけて外税の総額表示を選択するほかないが、そのぶん競争力は低下する。しかしながら、いまだ決めかねているという状態のようだ。

なにも回転寿司だけではない。あらゆる小売業にとって、これはゆゆしき事態である。じじつ財務省には、多方面よりはげしい突き上げがおこっていると聞いている。

 なぜこの時期にこの政策を導入するのか? いろいろと業界のヒアリングを重ねているうちに聞こえてきたのは、消費税値上げのための布石という説である。総額表示という方式をとることによって5%という税額にたいする意識を鈍らせ、来る消費税増税にむけて道をつけるという、財務省の姑息な策略だというのである。そういえば、消費税の高いヨーロッパに倣うというのも、ちょっとくさい。いずれにしても、ようやく上向きに転じた日本経済に冷水をかけることにならなければいいのだが。


表現の自由と商業主義

                                

 先月、田中真紀子議員の長女のプライバシーに関する記事をめぐって、東京地裁が週刊「文春」の出版を禁じる仮処分決定をだしたことは、みなさんご存知だろう。各新聞はいっせいに一面トップでこの事件をとりあげ、以降、折りにふれてこの事件についての言及を記事にし、特集を組んだ。

 というのも、裁判所の決定は、憲法で保証されている「表現の自由」を侵害する可能性があるからだ。つまり、国家による「検閲」がおこなわれたというわけである。

 私もこのコラムを書くために、いちおうその問題の文春を入手した。裁判所がそんな決定を下すくらいだから、きっと頬を赤らめるようなきわどいものなんだろうと、ちょっと期待していたのだが、読んでみると、取材のいきとどかない、学食のカレーのような内容のうすいゴシップで、なんだか馬鹿らしい気分になった。

 なんでこんなものを裁判所が問題視したのか。もちろん、プライバシー侵害の訴えがあったからなのだが、それ以上に考えられることは、最近の無軌道な出版界への警告ということである。プライバシー侵害はもとより、過激なヘアヌードの掲載、周到な取材を欠く裏づけのない個人攻撃の氾濫などへの、ある種の「見せしめ」ではないか。近ごろはこういうケースでの、名誉毀損訴訟の賠償額も高額化していて、司法がメディアにたいして厳しい態度でのぞもうとしているのは確かだろう。たしかに「見せしめ」はいいことではないが、かといって、いまの日本政府が検閲というような極端な情報操作に手を染めるとは私にはとてもおもえない。

 文春側は、このくだらぬゴシップに公益性があると強弁しているようだが、そこに昨今の出版不況下における経営の苦心をみるのは私だけではあるまい。公益性があろうがなかろうが、実際にはそれで商売しているわけである。今回の発禁処分で、かえって文春はよく売れたようで、公益性には疑問がのこるが、商業的には大成功といえるだろう。

 三月十八日付の読売新聞の社説は、次の一文でむすばれている。

「表現の自由を振りかざしてプライバシーを侵害するようなことが横行すれば、かえって民主主義の根幹を崩しかねない」

 それはそうだ。メディアが依然として自己検閲をできないなら、第三者機関によるチェックという要望は、今後いっそう高まるに相違ない。その場合、表現の自由は制限をうけるわけである。あんな低俗な記事のために表現の自由を制限されるとおもえば、かりに私が大新聞の論説委員だとしても、はらわたが煮えくりかえるだろう。

 まあしかし、かくも大事な「表現の自由」なのだが、彼らはその本質について一度でも真剣に考察したことがあるのだろうか。そこが疑問だ。「表現の自由」というと、筑紫哲也氏など、なにか不可侵の聖域のようにいうが、そんなたいそうなものか。

 表現の自由を認めるということは、デマをとばし、他人を誹謗中傷し、ゴシップ記事を書き、猥褻な写真を公開する自由をも容認することである。表現の自由というのは、その意味では、崇高なものでもなんでもない。むしろ猥雑なものといっていい。

 表現の自由にかぎらず、自由というものは拘束をうけないという状態を示しているだけで、本質的には、価値なんかないのである。肝腎なことは、そこで保証された自由のなかで、何をやるかということである。ここでいえば、認められた表現の自由の下でどういう内容の記事を出版するか、そこが大切なのだ。すなわち、国家の検閲よりもむしろ、表現の自由に名をかりた商業主義こそが、いま問われるべきテーマなのだ。

メディアに関係する人々は、自由の意味について、もう一度ふかく自省すべきであろう。

                           

ついに最終回!

                           海老正広

 太宰治に『グッド・バイ』という小説がある。その冒頭に曰く。

「唐詩選の五言絶句の中に、人生即別離の一句があり。私の或る先輩はこれを『サヨナラ』ダケガ人生ダ、と訳した。まことに、相逢った時のよろこびは、つかのまに消えるものだけれども、別離の傷心は深く、私たちは常に惜別の情の中に生きているといっても過言ではあるまい」

「或る先輩」というのは井伏鱒二で、いまの研究では「サヨナラダケガ人生ダ」はパクリではないかという疑いがあるようだが、それはひとまずおいておくとして、太宰のおどけた口ぶりとはうらはらに、ここには、まさに最後のメッセージとでもいうべき、かれの真摯な人生観がこめられていると、私にはおもえる。

 この小説は、ある男がプレイボーイ的人生から足を洗うために、何人もの愛人に別れを告げて歩くという筋立てになっている。かれはきれいに別れるために、とびきりの美人を雇って愛人のもとを次々と訪問する。その「別離百態」を小説に仕立てようというのが作者のモチーフである。新聞に連載される予定だった。

 で、実際に、このとき太宰は私生活において、愛人と別れられずに困惑していた。「スタコラサッチャン」といわれたこの女性は、かいがいしく太宰の世話をしながらも、青酸カリを隠しもっていて、棄てられたら死ぬといって太宰をおどしていた。かの女は自殺願望をもっていたのだ。そのため、太宰は自由な外出もままならなかったようだ。そういう自分を戯画化して小説に仕立てることで、かれ自身、解決策を模索していたのかもしれない。

 結局、初回分の原稿をわたしたあと、太宰はこの女性と玉川上水に入水自殺する。小説は中途のまま放棄された。

「グッド・バイ、サヨナラだけが人生だ」

 微笑してつぶやく太宰の顔が眼にうかぶようだ。そこには、ふしぎなほど暗い影はない。

 なぜなら、この遺作『グッド・バイ』には少しも捨て鉢なところがないのである。道化た、もしくは突き抜けた諦観があるだけだ。

「常に惜別の情の中に生きている」ならば、いつ別れのときが来ても、それを忌避する必要はさらにない。愛惜の念はあるにしても、さまざまな人と出会い、そこで起こった人生の日々は永遠に不滅なのだ。現在は過去の集積である。過去はただ過ぎ去ってしまうものではなく、いまの私をあらしめている経験の総体である。私の中にはすべての過去が生きていて、それらは現在の私を規定している。

 太宰は、過去に心中未遂事件を起こし、相手の女性を死なせている。それなら今度は自分が、心中をもとめる女性につきあって死ぬのも悪くはないと、かれは考えたことだろう。もののあわれを知るとは、そういうことかもしれない。私はあくまで自殺を否定するが、その心根にふかい感慨をおぼえることは否定できない。

 さて、私の「冬至夏至」連載もこれで最終回となる。それにふさわしいメッセージをのべるつもりが、なんだか行き止まりのような話となってしまった。しかしかならずしも、そうではない。――私たちのなかには不滅の過去が生きている。もしそうならば、生死にかかわらず、私たちもまた不滅なのである。私たちはそれぞれ一個の小宇宙であり、日輪とともにある。私はそれをいいたかったのだ。

 長いあいだ、ご愛読ありがとうございました。グッド・バイ。

女性の敵とみなされないために

                          


 正月早々、面白いジョークを聞いた。


「むかしはウチの女房も、食べちゃいたいくらいかわいかったもんだが、いま思えば、あのとき食べときゃよかった」


キートンのようにめったに笑わない私が、このジョークにはおもわず噴きだした。さっそく私もつかってみたのだが、それがいけなかった。聴衆の半数を占める人々、すなわちレディーたちの顰蹙をかってしまった。


「なによ、おたがいさまじゃない」


むろん、その通りだ。しかし、そのおたがいさまを容認して笑いとばすのが、ジョークとかユーモアというものの良さなのではないだろうか。


 ところが近年、ジェンダーとかフェミニズムが喧伝され、そうした精神の余裕は、どうもユーモアとはみなされなくなったらしいのである。

 とすれば、ふだんの言動にはなおさら気をつけるべきであろう。あなたのちょっとした言葉のせいで有権者の半数の支持を失うかもしれない。セクハラ男とよばれるより、好ましい男性だとみとめられるほうが断然いいに決まっている。


 そこで私は、世の不用意な男性諸君のために、けっして口にしてはならない言葉のいくつかをこっそりお教えしようと思う。以下ご参考になれば幸いである。


「女にしては、なかなかやるじゃないか」


「君、ナイス・バディだね」


「見違えたよ、化粧が上手だな」


「すまないけど、君。男性社員をだしてくれないか」


「卒業が決まったんだってね。次はお婿さんさがしだな」


「江頭2:50を知ってる? まさに君好みの男だよ」


「遠慮はいらんよ。もう重要な話は終わったから」


「新聞読むの? テレビ欄をみるんだろ、それとも占い?」


「女のくせに煙草を吸うのか」



「そうしょげるなよ。ぼくの母親もしょっちゅうそんなばかな失敗をしたもんだ」


「見ろよ、あの娘、叶姉妹みたいだぜ」


「君の旦那、出川哲郎に似てるんだってね」


「ええっ、まだ独身なの?」


「ははは、女性の総理大臣候補だなんて。世も末だね」


「君の彼氏は、君より年収が低いんだって?」


「それって、レディコミの読みすぎじゃないの」


「部屋がちらかってるぞ」


「お父さんそっくりだね」


「すこしは女らしくしろよ」


「これがうちの愚妻です」その他いろいろ。


 このくらいの言葉はなんでもないじゃないかと思われたとしたら、あなたは確実に認識不足である。これでも進んだフェミニストに火をつけるにはじゅうぶん危険なものなのだが、もっと怒らせたければ次の歌を歌うといい。


「ゲット・バック、ゲット・バック、君がかつていたところに戻れ!」




渡る世間はノーフューチャー

                                   

 本紙から、今年の三大事件というテーマを課されたので、それを肴に、吉井さんと執筆者同士、たのしく飲むことができた。吉井さん、ごちそうさまでした。この場をかりてお礼申し上げます。


というわけで、いろんな話をしながら、私は今日の原稿のテーマを何にするか、じつは頭のすみで考えていた。何でも好き勝手に書き散らしているようにみなさんは思われるだろうが、私にも私の主題というものがあって、そこからたれている釣り針に引っかからないと一行も書けないのだ。ふしぎなものである。


で、今回針にかかったのは、なんと今年最大のヒット曲、スマップの「世界で一つだけの花」である。吉井さんも無気力で嫌いだということだったが、私はこの曲をはじめて聞いたとき、その軽薄な偽善に閉口した。内容は、こうだ。


花屋でならんでいる花は争う事もせずに、「しゃんと胸をはって」いる。

しかし人間はいつも競争し、「一番になりたがる」


「そうさ僕らは、世界に一つだけの花


一人一人違う種を持つ


その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい


小さな花や大きな花


一つとして同じものはないから


NO.1にならなくてもいい


もともと特別なOnly One」


要するに、「ナンバーワンより、オンリーワン」というメッセージだ。そういわれてみると、経営コンサルタントなんかも最近よく口にする言葉で、一種の流行なのだろう。

 だがこれは、価値というものの本質を知らない者のたわごとである。たとえば、自愛する骨董が、鑑定団に贋物だといわれれば、誰しもがっかりするものだ。本当にオンリーワンでいいのなら、なにもへこむ必要はないはずだろう。そもそも、ナンバーワンを志向するのは、人間の、というより自然の摂理なのである。


私たちは、自分の恋人は自分だけの「オンリーワン」でいてもらいたいと思う反面、誰にとっても素敵な女性であってもらいたいとのぞむ。価値とはそういうものだ。とすれば、その価値をめぐって必然的に闘争がおこってくる。自分がいちばん好かれたいと願うのは当然の話ではないか。だから、センチメンタルな恋愛ドラマも成立するわけである。


しかもこの場合、「ナンバーワンよりオンリーワン」と訴えることによって、チャートのナンバーワンを狙っている。はじめから自らを裏切っているわけだ。スマップの諸君も、多少なりとも誠実と知性があるならば、そこに一抹の後ろめたさを感じることだろう。


じつをいうと私は、子供のころから、闘争を好まぬところがあった。成績もスポーツも、ゲームも恋人も、給食の順番も、たいてい友人に譲ってきた。おかげでいつも、先生に叱咤激励されていたものだ。


そういう私がいうのだから間違いない。人間は、「NO.1にならなくてもいい」と考えたとたん、ダメになる。自分はたとえナンバーワンになれなくても、いや、ほど遠い存在であればなおのこと、ナンバーワンの価値、あるいはナンバーワンにあこがれる気持ちを失ってはならないのである。


そういう気持ちこそが、倫理や価値というものを支えている。こういう歌がはやること自体、現代社会の堕落を暗示していると私は考えるのだが、はたしてどうだろうか。


バカの壁ネイキッド



今回のイラク戦争をめぐっては、親米派・反米派をとわず、あきれるほど愚かな論議がくり返されている。


たとえば今月の『諸君』で、反米派の代表・西部邁は、米国のイラク攻撃を「国家テロ」だといいきっている。つまり米国が国際法を無視した以上、これは大義なき戦争であり、日本が米国を支持するのは間違いである、というのが彼の論理である。したがって、自衛隊の派遣にも反対。日本は米国の「国家テロ」に加担すべきではないというわけだ。

 ちなみに西部氏は、テロとは「不法の武力・暴力行使」であると定義していて、侵略的先制攻撃はしないというパリ不戦条約以降の原則を破る米国の行為は、国際社会の秩序に反する「国家テロ」だと断言する。


あきれてものがいえないとは、このことだ。彼の主張はせいぜい、青臭い学生論のレベルでしかない。こんなものが通用するとは、じつにどうも、日本の論壇もなさけない。


第一に、テロが「不法の武力・暴力行使」であるのは、その暴力的行為がはじめから法の無視を前提とするからである。ということは、まがりなりにも国連決議を前提とした米英の軍事行動は、どう考えてもテロなどではありえない。

 常識で考えても、最後通牒や宣戦布告をしてはじめるテロなんてあるだろうか。そういう手続きを無視するからこそ、テロというのである。


第二に、イラク戦争に大義はある。フセインという独裁者が中東で覇権をにぎることは、それこそ国際秩序の破壊につながる事態ではあるまいか。クゥエートやイランにいきなり侵攻したり、クルド人自治区で、自国民に生物兵器を使用したりすることこそ、「国家テロ」という言葉に値するものにほかならない。そういう連中を排除することに大義がないというなら、そもそもこの世に大義なんてものは存在しない。

「テロを撲滅するためにテロをするのはおかしい」と、西部氏は米国を批判する。ところがべつのところで、「不当を尽くした体制に対するやむをえないテロ」は、「正当性のあるテロ」であり、「認めてもいいことだってある」と発言している。それなら「テロを撲滅するためのテロ」は「やむをえぬテロ」であるから「認めてもいい」ということになり、前言と矛盾する。こんな初歩的な矛盾に無自覚でいられるのは、もちろん粗雑な頭脳の持ち主ということなのだが、もう一つの理由は、彼のすべての議論の前提に、「悪の帝国・アメリカ」というぬきがたい先入見があるためである。

 テロにも善いものと悪いものがあり、米国の「腐敗しきった民主主義を打倒しようとする」イスラム過激原理主義者のテロは善いテロであるかもしれない。だから、米国に手を貸さぬことこそが正義だと、彼はみなす。


なんと低い倫理意識だろうか。何もしないことが正義などであるはずがない。これは親米派にもいえることだが、米国の顔をたてるかたてないか、結局それだけの話でしかないのである。彼らは米国との関係しか頭にない。


私たちの現代生活は中東の石油資源なくしては成立しない。それだけでも私たちはイラク復興に積極的に参加する国際的な義務と、国益にもとづく政治的必要性がある。援助を切望しているイラクの人々に一刻も早く手をさしのべるべきなのだ。どんな場合でも、「正義」は行動の中にしかない。


しかも事態は切迫している。日本の外交官が二人も暗殺された。政府はすみやかに自衛隊を派遣して、在留邦人とその保護下にあるすべての人々の安全を確保するために、作戦行動を展開すべきである。それは「やむをえぬテロ」などではない。当然の自衛行為である。もしそれを妨げるとすれば、憲法九条は改正さるべきであろう。



現代の悪魔を論ず

 池田小児童殺傷事件で宅間被告にたいする死刑判決がでた。その夜、ニュースを見ていたら、番組に寄せられた視聴者のメールが紹介されていたのだが、その中で目立ったのは、驚くべきことに宅間被告への共感をのべたものだった。さながら悪魔の囁きのごとく、彼の言葉はある種の人々の心を揺さぶったようだ。

その人々とは、この世の「不条理」に気づいた人であり、自らの宿命を呪い、その不当に涙し、同情を拒み、世間の不公平に憤る人である。


「恵まれた子供も、自分のような腐れきったおっさんに刺されて死ぬ。そんな不条理を分らせたかった」

この言葉の背後には、不遇をかこつ者の底しれぬ恨みがある。平等などというものは世俗のまやかしであり、家庭環境や生得の能力に応じて、スタートラインからはなはだしいハンデがつけられている。自分のように「人生ドツボにはまった」者は、何をしても挽回不可能なのだ、と。そこには行き場のない憤怒がどくどくと脈打っている。


池田小事件での宅間被告の論述を聞くたびに、私は『罪と罰』のラスコリニコフを想起する。

何万という人を死にいたらしめたナポレオンは英雄として崇拝されるのに、一人を殺害した者は殺人者として裁かれる。ラスコリニコフは、それを衆愚のご都合主義とみる。強者が弱者を殺すのは自然であり、世間の道徳などというものは弱者のペテンにすぎぬと考えるのだ。そして実験として、金貸しの老婆を殺す。それはまた、自分は強者の側に立つ者であるという自己証明の行為でもあった。


英雄になりたかったという点で、ラスコリニコフと宅間被告は似ている。しかしその後は、ぜんぜんちがう。英雄をめざしたラスコリニコフにたいして、彼はそういう努力の一切を放棄し、ひたすら復讐と自己破壊の行為へとおもむくのである。


獅子は子羊を襲い、貪る。これが獅子の獅子たる所以であり、子羊が軽やかに震えるとき、それが子羊の平安である、とDHロレンスは語っている。これは、現代に蔓延する見せかけの平等思想にたいする、激烈な否定の声である。(「平安の本質」)

子羊に生まれついた者は獅子にはなれぬ。子羊は子羊の、獅子は獅子の存在に徹することによってこそ、その者は平安を得る。


だがラスコリニコフは自己に逆らい、獅子になろうとして殺人を犯す。しかし彼はその後、大地に額づき慙愧の涙を流した。世俗の道徳律におびえたのではない。英雄たらんとした行為のはてに、自己を超える摂理、神にぶつかり、彼は自らの卑小な挑戦を激しく悔悟した。すなわち彼は存在の意味を悟ったのである。


他方、宅間被告には、ラスコリニコフにみられた形而上的な情熱はない。自暴自棄と逆恨み。不平不満。暴力。自己完成の試みはあらかじめ省略され、すべては社会悪へと転嫁される。自らを甘やかし、真実から眼をそらす。したがって彼の行動はけっして自己を超えるものと出会うことはないし、それゆえにこそ改悛もしない。ただ死のみが、彼にとっての救いである。


個人の力ではどうしようもない宿命というものがある。それがどれほど不当なものであれ、その現実を生きぬくとき、私たちはすばらしき平安の薔薇である。ロレンスは、そういっている。


ギミ・サム・トゥルース

ラティガンの『ウィンズロウ・ボーイ』という英国の芝居を見たことがある。


ウインズロウという少年が窃盗の罪で陸軍幼年学校を退学させられるところから、幕があく。少年は濡れ衣だと主張するが、認められず、裁判で敗訴する。息子の無実を信じる父親は上告するが、棄却され、その過程で、父は職を失い姉の縁談は壊れるといつた悲劇が家庭を襲う。それでもあきらめぬ父親は、最後の手段として、ついに「権利の請願」に訴える。王の特別の慈悲による再審をもとめるのである。それはいうまでもなく、現代では休眠し用いられることのない前時代的な法の主張である。


家族はもうやめてくれと父親に懇願する。これ以上世間のさらしものになるのは嫌だというのだ。せっかく世間は忘れようとしているのに、「権利の請願」などもちだせば、またもや好奇の目があつまり、あれが「ウィンズロウ・ボーイ」だと後ろ指をさされることになる。しかしそれでも、父親はあきらめず、みずからの人生をかけて無実をはらそうとする。ちなみにこの芝居は事実にもとづいている。


この劇には、いろんな意味で、英国的な法の伝統があらわれていると私は思う。が、なかでもここで私がいいたいのは、法の正義についてである。この父親は、濡れ衣を着せた学校にたいして復讐するために、つまり私憤ゆえに法廷闘争してゐるわけではない。かれはあくまで不正をただすためにたたかつたのである。


さいきん凶悪犯罪の増加につれて、「被害者の権利」ということが問題となっている。「仇討ち」の法制化などという極端な議論すらある。大阪の池田小事件の公判で、検察は死刑を求刑するとともに、「いわゆる死刑廃止論がいかに被害者や遺族の立場、心情を無視した空疎なものであるかということを実感せざるを得ない」という、異例の言及をした。


私は、わが目を疑った。これは、法の根拠を無視した暴言としか思えない。


法というものは、「人が人にたいして狼になる」のをふせぐものである。とすれば、復讐を法的にみとめるということは、法の理念にあきらかに反するものであろう。たとえどのような罪を犯した人物に対してであれ、法廷は被害者や遺族の復讐の場ではない。「犯罪者に対して復讐すること」を基本的人権とすることは、現行の法体系を揺るがすのみならず、法に於ける正統というものを否定することにほかならない。


それでは道徳的見地からみるとどうか。


たとえ死刑になつたとしても、加害者の罪は未来永劫、消えるわけではない。道徳的な意味での罪とはそういうものである。むろん、被害者の家族が加害者に復讐することでも、罪は償われはしない。もし法が、真の意味で「道徳に根を持たなければ」ならぬとするならば、尚更のこと、復讐の権利などというものをけつしてみとめてはならないのである。


おまえは冷たい、と思われるだろうか。しかし、私とて人の子だ。娘を殺されたら復讐に燃えるであろう。遺族の気持ちは痛いほどよく解る。だが私は、その場合も、個人の責任において復讐を敢行するつもりだ。法の助けなど一切いらない。


“悪魔を追い詰めるのに邪魔だからといって、森の木々を切り倒し禿山にしてしまったら、いざ悪魔がふりむいて襲ってきたとき、われわれが身を隠す場所はどこにもないのである。”


本当にあった怖い話

A氏(三十七歳)は、ある朝、細君(三十二歳)の、

「何これ、ヘンな葉書がきてるわよ」


という、いつもより半音くらいトーンの高い声におどろいて、読んでいた新聞から眼をあげた。


どれどれと、さしだされた葉書をみると、「支払催告通知書」と書いてある。急いで宛名をたしかめたが、間違いなく自分宛てである。イヤな予感。内容は以下のとおり。


「この度私どもは過去にあなた名義の電話回線から使用されたアダルト情報サービスについて、サービス提供者より未納利用料金に関する債権譲渡をうけ、代わりに回収させていただく事となりました。現在下記記載の利用料金が未納となっており、遅延損害金、回収代行手数料と合わせて、金二万八千九百五十円を本通知書到着の翌日より四銀行営業日以内に下記口座まで入金いただくようお願い申し上げます」


その下に利用サービスと銀行口座名(なぜか個人名義)があり、さらに次のような但し書がある。

「本支払通知書の送付にもかかわらずご入金いただけず放置されますと、最終的にあなたの自宅まで訪問させていただき、上記支払金額に交通費・人件費を加算させていただく場合がございますので必ずご入金ください」


そして最後に「音羽会整理回収グループ」とあり、連絡先の電話が書いてある。読んでいるうちにドキドキ心臓が早鐘をうつ。

 A氏はふしぎそうな顔を無理につくって、動揺をかくした。


そういえば、ちょっと前のことだが、深夜こっそり、何度か衛星放送のアダルトチャンネルを利用したことがある。あれはちゃんと払ったはずなんだが、どうして請求が今ごろくるんだろう。しかも、なぜか、ヤバそうな取立て屋に債権がうつっている。こんな連中に自宅に来られた日には、女房は目をむくし、世間の外聞もはなはだ悪い。どうしよう…三万円は痛い。でも、振り込むしかないのか…


月末で、小遣いも底をついている。A氏はなけなしのヘソクリをかき集めてみたが、どうしてもあと七千円足りない。あと猶予は三日しかない。いまにも怖いオニイサンがやってくる。とりあえずサラ金でつごうをつけるか。それとも…考えあぐねた末、結局、方途を失って細君にうちあけた。

「あなた、ばっかじゃないの。あんなの詐欺にきまってるじゃない。本気にしてどうすんのよ。あなたのムッツリスケベにつけこんでるのよ。だいいち、あなたがかくれてアダルトチャンネル見ているくらい、こっちは先刻承知なんだから。なさけない。ホントにどうしようもない人ねえ。だいたい常識で考えたら解るでしょ。…」

 と、小言は延々つづき、いまなお休火山の状態がつづいている。そのうえ、わずかながらの内緒金まで召し上げられてしまった。

「まったく、最後の一滴まで汁をしぼりとられたレモンのような気分だよ」

と、A氏はしみじみと私に語った。


この話の教訓は、軽挙妄動はつつしめ、ということではない。あえていえば、遠くの詐欺はよく見えるが、眼前のペテンには騙されやすいもの、ということになろうか。


平和と倫理についての書簡

K君、おてがみありがとう。

君からの疑問ないし批判を読みながら、ぼくの中に湧き起こったいろんな考えをそのまま書いてみようと思う。まとまりのない話になるとは思うが、こころにもないことは一字たりとも書かぬつもりだ。


さて、君はぼくが今回のイラク攻撃でいちはやく米国支持をうちだしたことが気に入らぬようだ。無批判の米国支持は思考停止であり、米国の属国意識のあらわれだというわけだ。ブレア首相は米政府の番頭で、ぼくは丁稚だと君はいう。つまり、毅然たる態度で米国にたいして不支持を表明することこそが、日本が独立国たる証だというのが、君の主張の骨子だ。


しかしそれは少々おかしい。政策の決定はあくまで冷静な計算にもとづくべきで、君のいうように、独立国たらんとして反対するというのでは、順序が逆だ。本末転倒である。君がいっていることは、反抗することが自立だと勘違いしている甘ったれのお坊ちゃんの屁理屈とさしたる径庭は無い。ぼくのことはいいにしても、ブレア首相を番頭呼ばわりするなんて、君の眼はどこについているのかといいたい。


K君、ぼくだって平和が好きだ。戦争を賛美する気など毛頭ない。しかしだからといって、君のようにブッシュを人殺し呼ばわりすることはしない。戦争を罪悪とみなし平和を主張しさえすれば、それがそのまま正義の叫びとなると、君は本気で信じているのか。ぼくはそういう低い道徳観には同意できない。というのも、君はみずからの平和論にいかなる責任も負うことはない。君の良心は、他を非難し他に罪をなすりつけるためにのみ働いている。それはなんといっても偽善ではないか。肝腎の君自身はどこにいるのだ。

平和や正義が他者を追及する口実であるならば、あるいは道徳論が無責任な非難のかたちをとるならば、ぼくはそういう平和主義を断固拒否する。蔓延する偽善的風潮のなかでは、道徳を拒否することが唯一の道徳的行為なのではあるまいか。


現在アメリカは世界秩序の擁護者をもって任じ、これに対抗する行動をある種の犯罪行為とみなしている。しかしそのインターナショナリズムは、一方ではこれまでの世界支配の企てと区別されず、帝国主義的野望として受けとられる。すなわちアメリカは力を権利とみなし、それを無軌道に行使している、と。


もちろん力は権利そのものではない。ブッシュ大統領がそう考えているならば、思い上がりもはなはだしいが、にもかかわらず、力は超大国アメリカにある一定の権利を付与するというのもまた事実なのだ。これは人間の本性に根ざした必然悪とでもいうべきもので、けっして解消されはしないだろう。むなしいパフォーマンスをしりぞけて、現実をきびしく見つめるならば、この権利をインターナショナリズムのうちに収容するほかに、世界秩序を維持する方策はない。国連も米国の軍事力を背景にしなければ、大規模な親睦団体にすぎないのだ。


K君、現実とは苦いものだ。でも、この苦味をかみしめることから責任の倫理は動きはじめる。君が本気で政治家をこころざしているのなら、何にもましてこの責任の倫理にこそ正直であるべきなのだ。



国連の黄昏

質問をうけた。

 フランスはどうして強硬に米国に反対するのか。どういう戦略的見通しをもっているのか、という問いである。

 私はなんら特別な情報はもっていないので、推測するほかないのだが、今回のフランスの行動はかれらの複雑な世界戦略にもとづいていると考えられる。


公平にみて、フランスは米国にくらべて、国際社会では比較にならぬくらい小さな存在にすぎぬ。しかしながら、国連安保理の常任理事国で拒否権を保持していること、EUで主導的立場にあることの二点で、特殊な地位を占めている。逆にいえば、この特殊な地位を確保し、拡大することがフランスの国際的な関心事であるといえよう。したがって今回の強硬路線は、この国際的な地位を確保するためのパフォーマンスだと私はみている。


というのも、東欧諸国がEUに加盟すれば、欧州におけるフランスの主導的地位が低下するのは明らかなのである。旧ソ連圏に属していた諸国は、冷戦構造からの解放において、フランスよりも、はるかに米英の力に負うところが大きかったという認識をいだいており、事実、ポーランド、ハンガリー、チェコの三国は、今回も米英と共同歩調をとる態度を示している。そうした諸国がEUでの一票をもてば、フランスは二度とふたたび、欧州の代弁者を気取ることはできなくなるであろう。それゆえフランスは、いまのうちに米英と欧州を分断し、アングロサクソン主導の世界秩序にたいして対抗軸をつくろうと躍起になっているのである。


いっぽう国連は今回の件で、みずからの無力を露呈してしまった。超大国であるとはいえ加盟国である米国の政策を、フランスが期待したように封じ込めることができないのはもちろん、イラクの大量破壊兵器もまた、どうすることもできないわけである。拒否権をもつ五カ国の総意がなければ動けない国連は、もっとも国連の力を必要とする国際紛争において、まったく身動きできないという矛盾した体質をさらけだしてしまったのである。


フランスの利己的なパフォーマンスによって、国連とNATОは決定的な打撃をうけた。冷戦構造時代にできた国際秩序と米国を中心とした同盟関係には、深い亀裂がはいり、崩壊の危機に瀕している。もっとも、フランスの行動が無くとも、早晩こうした事態にたちいたったことであろう。いずれにしても、東西冷戦とともに発生した構造は、冷戦の集結とともに空洞化し、急速に意味を失いつつある。


ジャック・デリダは『フィシュ』のなかで、新しいヨーロッパの創設について語っているが、かれの主張するような脱構築的な共同体としてのヨーロッパ、ナショナリズム抜きのナショナリズムといった「不可能性の可能性」の倫理が実現するとは、私にはとうてい思えない。不気味に出現した安全保障上の空白を国連が埋めることのできぬ以上、諸国民はみずからの責任において、あらたな同盟関係を模索し、その空白に対処するほかに生き残る道はないであろう。


平和の理念と国際社会の現実



前回の「米国を孤立させるな」は反響が大きく、賛成・反対ともに多くの反応があった。なかには県外から批判の電子メールを寄せてきた人もある。しかしながら、イラク攻撃反対が国民の七割を占めるわりには、賛意の方が多かった。


いちばん手きびしい批判は、「保守主義」を標榜する人からで、かれは私を「対米追従の日和見主義」と切り捨てていた。


ちょうどその時、商工会議所の会員大会で、白鴎大学教授・福岡政行氏の講演を聴いた。この問題についての福岡氏の意見は次のようなものだ。


イラク問題と北朝鮮の問題はリンクさせて考えなければならない。もし米国が国連決議を経ずにイラク攻撃をはじめたら、北朝鮮は行動にでるだろう。その時のターゲットは日本だ。だから米国のイラク攻撃は阻止しなければならない、と福岡氏は語った。そして、ただ米英両国のいいなりの日本は、米英のうしろで鎖につながれているポチだと軽蔑してみせた。


しかし、そのポチが米国の攻撃開始を阻止できるのだろうか。あるいは日本が中国やフランスの味方について米国の孤立化に手を貸したとして、その場合日米安保体制は空洞化するのだが、今後、北からの脅威にたいして日本はどのような防衛体制をとるべきだとかれは考えているのか。ロシアや中国に頼るつもりなのか。というか、結局は米国がなんとかしてくれるという抜きがたい対米依存心が、かれの発想の底には横たわっているというのが真相であろう。

 福岡氏の意見は非現実的であるだけでなく、平和への理念も欠いている。日本だけよければいいというのは平和主義ではなく、事勿れ主義である。現実主義からいっても、世界の秩序が崩れ、資源や食料の輸入が止まれば、真っ先に困るのは日本なのではないか。


もう一度確認しておきたいのだが、イラク問題のベースにあるのは、全体主義への戦いである。フセインは何ら大義名分もなくイランに攻め込み、クウェートに攻め込み、生物化学兵器を用いて自国内で民族浄化をくわだてた。そういう人物に中東の石油資源をゆだねておくことは、誰が考えても、国際平和の維持を考える上できわめて大きな危険要因であるといえよう。


と同時に、私はこう訴えたのだ。私も戦争は嫌だし、ブッシュ政権の拙速には腹立たしい思いである。しかしながら、このまま国際社会がブッシュ政権に対立すれば、米国は国連の合意など無視してイラク攻撃を開始することになる。その場合、米国の軍事力は剥き出しの暴力として国際社会に露出することになる。そうなると米国は国連決議など二度と見向きしなくなるだろう。


これもまた、国際秩序と日本の安全保障にとって、きわめて大きなマイナスとなる。私は「国連主義」などという国連絶対化は馬鹿げた意見だと思うが、それでも米国が国連を無視するようになることは、ありうべき国際社会像からいえば一歩も二歩も後退であることは否めない。


であるから、日本がとるべき唯一の道は、すぐにでも米国支持をはっきり表明し、その上で、同盟国である英国と協調して、フランスや中国やロシアの石油利権にもとづいた覇権掌握へのの思惑をおさえこむこと。同時に、国際社会に対して、米国を孤立化させることの不利益を訴えること。そしてもっとも肝腎なことは、同盟国として、米国が国際法に合致した行動をとるように、ねばりづよく促しつづけることなのである。

 これは対米追従の日和見主義者やポチの仕事ではない。のみならず、これこそが、いま国際社会がもっとも必要としている国際行動にほかならないのである。



米国を孤立させるな

パウエル米国務長官が、イラクの「積極的な査察妨害」と大量破壊兵器に関する国連決議違反を弾劾したのにたいして、ブリクス国連査察委員長は、いかなる意図にもとづくのかわからないが、査察継続をもとめる報告をおこなった。仏独、そして中国も武力行使に難色をしめしている。

 その結果、米国はふりあげた拳を打ちおろすことができずに、ぶざまなかたちとなっている。当面、武力行使は宙に浮いた。反戦運動家は拍手喝采だが、ことはそう簡単ではないだろう。


というのも、すでに十五万人以上の兵力が湾岸地域に集結している。米国にとって武力行使は既定路線なのである。この軍事的現実を直視すれば、作戦をそう長くは遅らせられまい。まして平和的解決なんてことはまずありえない。ふりあげた拳はあまりにも重いのである。


事態はきわめて重大な局面にさしかかっている。ブッシュ政権は、安保理で分が悪いとみれば、国連の決議をまたずにイラク攻撃をはじめるだろう。そうなれば、中東はもとより、欧州の一部や中国からのきびしい反発が予想される。

 問題なのは、そうした国際社会へのダメージだけではなく、むしろ米国の世界戦略がいままであったような国際的な合意を顧慮することなく、孤立的な色彩を強めることである。そうなれば、国連などというものは有名無実の存在と化すほかない。国連が米国に屈辱をなめさせることは、自分の首をしめる自殺行為であろう。

 われわれはブッシュ政権をそういう窮地に追い込んではならない。真に世界平和を願うなら、米国の武力というものを国際社会に剥き出しのまま野放しにするのではなく、国際法的な正義の枠内に確保しておくのが得策というものではないか。


ところで、世間は米国の覇権主義を非難し反戦運動をくりひろげているが、私はかならずしもそうは考えていない。むろん米国が自国の利益を最優先しているのは事実だが、そんなのは当たり前の話である。今回反対に回っているフランスや中国においても、あくまでそれは自国の利益を確保しようとする思惑にもとづく行動であって、そこを見ずに、おもてむき掲げている彼らの平和主義を鵜呑みにするようでは、その人はよほどおめでたいということになる。

そんなものなら、私は米国の主張するアイデアリズムのほうがよほど信ずるに足ると思う。なんといってもフセインは独裁者であり、生物化学兵器を使用した民族浄化をはかり、クゥエートを不意打ちで侵略したという前歴をもっている。そういう人物が中東で覇権をにぎり石油資源を支配するというのはきわめて不都合な状況というべきであり、国際社会としてはなんとしても回避しなくてはならない危機的事態ではないだろうか。


かつて英国首相チェンバレンは、ラインラントに侵攻したヒトラーにたいして宥和政策をとった。宥和政策といえば聞こえはいいが、独裁者と取引して小国を犠牲にしたのだ。その行為は目先の平和を喜ぶ市民から拍手喝采をもって迎えられたのであるが、しかしその結果、第二次世界大戦とユダヤ人虐殺というとりかえしのつかぬ代償を支払うこととなった。


われわれは「浮薄な平和主義」をすてて真摯に歴史に学び、もう少し深く事態を掘り下げて考える必要があるのではないだろうか。世界平和を実現することと、いたずらに戦争を忌避することは同じではないのだ。


インディペンデンス・デイ

 みずほフィナンシャルグループは二十一日、一兆円の資本増強を軸とする経営改善策を発表した。今年三月期の最終赤字は当初、二千五百億円程度を見込んでいたが、それも実際には一兆九千億円に達する見通しであると修正された。他の大手銀行も、みずほほどではないにしても、それぞれ右にならえの発表を行った。


世間はさほど問題視してはいないが、これは大変な話である。

 だって、二兆円の赤字ですよ。これは小国のGNPに相当する額だ。しかも当初二千五百億円くらいといっていたのである。


どうしてそんなことになるのか。結論からいって、不良債権処理から生じる損失を極端に過小評価していたから、というほかない。ありていにいえば、今期も頬かむりで問題を先のばしにするつもりが、そうはいかなくなったということなのである。


なぜか。端的にいって、政府が資産査定の厳格化を決めたからである。いわゆる竹中プランの効果がこういうかたちで出たのだ。大手銀行は竹中プランにあれだけ反対しながら、結局は彼の提案に屈したのである。就任以来、竹中経済相ははじめてなにごとかなしとげたということになる。ようやく政治家としての仕事に着手しえた竹中さんに、私としては心から拍手を送りたい。


いっぽう銀行としては、竹中プランをのみながらも、国有化という最悪の事態は避けようと、資本増強という手にでた。これはもう、背水の陣であろう。

 というのは、増資の際に発行する優先株の配当金だけでも、年百億円単位の負担金が生ずるのである。すでにある二兆円をはるかに上回る不良債権とはべつに、将来にわたって、配当負担がのしかかる。三月期末はのりこえても、いまの経済状況を考えると、来期以降も大幅な不良債権が新たに生じるのは火を見るよりも明らかなのではないか。大幅な利ざやを稼げる仕事を想像するのもむつかしい。結果として、銀行を取り巻く状況はますます厳しくなろう。


ところが他方では、西武百貨店やハザマにたいして巨額の債権放棄をする見通しである。支援を打ち切って巨額の不良債権が一気に発生するよりも、とりあえず延命策をとって問題を先送りしようという相変わらずの手法である。じつに不均衡な経営というほかはない。当の銀行自体、こういう経営をする企業があるとしたら融資をするだろうか。


そういう目でもういちど一連の発表を見直してみると、結局は、当面の「三月危機」を乗り越えるのに躍起となるあまり、将来にわたる長期戦略を欠いているのではないかと思わざるをえない。


そのうち大手銀行はゴールドマンサックスやメリルリンチに、たかだか千数百億円の金で支配され、国有化は免れたにしても、結果的に外資に占領されるという事態になりかねないのではなかろうか。


まあしかし、それもいいだろう。国破れて山河あり。われわれはそこから再出発すればいい。とにかく私は、たとえ竹中プランに押されたとしても、かたちを変えた「護送船団方式」を拒否して、まがりなりにも自力で再生する道を選択した銀行経営陣にささやかな敬意を表したい。



新編いろは歌留多 承前

                                                       『り』 律義者の田中さん


パロディというものは、元ネタを知らなければ空振りだ。この場合、江戸いろは歌留多では「律義者の子だくさん」といい、現代ではもはや通用しない俗諺の一つとなっている。それもそのはずで、いまの世で律義者だったら、まじめに将来を考えると、子だくさんということはよもやあるまい。

 ところで、一年前のいまごろだったら、「田中さん」といえば、真紀子さんだった。しかるに毀誉褒貶というのは恐ろしいもので、いま田中さんといえば、誰がみても、ノーペル賞の田中耕一さんにきまっている。彼の前では、田中康夫も田中麗奈もかたなしである。

 どうしてそれほど耕一さんが圧倒的なのか。つらつら鑑みるに、彼は絶滅種に指定されている学名「ニホンリチギモン」なのである。彼は、律儀といういまは失われてしまった日本の伝統的徳目を奇跡的に保存していて、私たちはそこにはげしい望郷の念を感ずるのだろう。


『ぬ』 糠に釘


現在の経済学や財政というものは、相変わらず、戦後つづいた緩やかなインフレを前提に構築されている。が、世界は変わった。デフレが常態となったいま、そうした手法はまさに「糠に釘」なのだ。

 したがって、緩やかなデフレの維持を想定した経済政策や企業運営がいまもとめられている。言うは易く行うは難し、だが。


『る』 瑠璃もハゲも照らせば光る


私はなぜか、子供のころから、いちばんにハゲるといわれてきた。おかげで、それなりの覚悟はしてきたつもりだ。現在のところ、前線はかなりの後退を余儀なくせられたものの、生え際ギリギリでなんとか踏みとどまっている。同窓会なんかに出ると、私をハゲると冷やかした連中のうちに、私などはるかに追い越して完全撤退を完了しているのが約数人、部分撤退十数人。なかなか壮観である。ついつい視線が上の方にいくのだが、少なくとも私には、そうする権利があると思う。


『を』 老いてはいい子にしがたい


 うちに、めでたく米寿を迎えた祖母が鎮座ましましている。彼女は口ぐせのように、私はもう欲も無くなって仏様に近づいた、という。それが真実だとすると、「仏様」というのはずいぶん短気で怒りっぽい存在のようだ。

 たとえば、信号が点滅しているのに、自分の体力を考えずに、横断歩道を押しわたらんとする。もちろん急ぎの用事なんかない。どうしてそれが待てないのだろう。こないだも携帯電話の使い方を教えていたら、こんな不便なものはないと怒鳴られた。それって、ドコモの高齢者用最新機種なんですよぉ。

 まあしかし、そういう老年も悪くないと私は思う。


『わ』 われなぜにドジ豚


ダイエットに失敗したのだ。そう自覚はしているものの、

「海老ちゃん、腹がでたなあ」

 と、I先生にいわれたとき、ちょっとショックだった。

まえにダイエットを決意したとき、私のリスペクトするデザイナーのNさんにその秘訣をきいたら、「適度な不摂生」という答えだった。その日以来、私はその教えを遵守し、毎日、残業に精をだし、適度に睡眠を削り、適度に深酒をこころみた。結果として、見事にダイエットに成功。一時は鼻高々であった。ところが人間の適応力というものは恐ろしいもので、驚くべきことに、私の体はしだいにこの環境になれてきたのだ。徐々に体重はもどり、それどころか以前にもまして豊満になってきた。

 奇兵は正兵に勝たず。やはり、真面目なダイエットを開始するしかなさそうだ。                (来年につづく)



エミリーに薔薇を 

              小沢一郎小論


                          


私の友人には、小沢一郎ファンが多い。支持者とまではいえないにしても、彼に期待しているのである。そういう潜在的な小沢待望論はずっとくすぶったまま続いてきている。


彼の魅力は何かといえば、それは日本にはめずらしい「理念型政治家」である点にある、と私は思う。小沢一郎は日本の将来にたいして、語るにたる明確なビジョンをもっていて、しかもそれは彼の古典主義的な思想から導きだされたものなのである。

「歴史と伝統を踏まえ、日本人の心と誇りを大切にする、自由で創造性あふれる自立国家日本をつくる」ことを提唱し、「戦後保守」との訣別を訴えている。その意味で、私もかつては彼に期待していた。


今回の民主党との合流論も、小沢党首というところに、ある一定の期待感があった。野党には、遺憾ながら、小泉自民党に対抗する強力な指導者が見当たらない。やはり小沢しかいないのか。田原総一郎のような人でさえ、いちど小沢政権を見てみたいといっている。


しかし私はもはや、彼に期待してはいない。なぜなら、彼の行動の軌跡はつねに私を裏切ってきたからである。


平成二年、いわゆる「小沢面接」というのがあった。自民党の次期総裁、つまり次の首相に誰がなるかというとき、決定権をもつのは最大派閥でありながら候補をださない竹下派だった。金丸信の委託をうけた小沢一郎は、宮沢・渡辺・三塚という三人の派閥の領袖をよびつけ、自分の事務所で面接をした。


このとき小沢は傲慢だという批判がでた。そういう批判がでることを計算にいれないというのも、彼の大きな欠点のひとつであるが、それよりも私は、面接の結果、宮沢喜一を選んだことに不満だった。なぜなら、宮沢はもっとも小沢と遠いタイプの政治家だったからだ。彼は明らかに、理念よりも派閥力学を優先させた。


このとき以来、私は小沢一郎にたいして懐疑的になった。


その後、新生党をつくって自民党を離脱したあと、日本新党の細川さんを首班に野党を糾合して政権を奪取した。土井党首を衆院議長という餌で釣って、社会党をも丸めこんだ。鮮やかな手腕ではあるが、ここから、理念や政策よりも数合わせという、小沢さんの迷走がはじまる。


細川首相の突然の辞任。小沢は羽田政権をつくりながら、いつぽうで渡辺美智雄に手をのばし、派閥ごと離脱してきたら、首相にするという裏取引を行った。


自民党はそれに対抗して、社会党と手を組み、村山社会党党首を首班指名するという「禁じ手」に出た。渡辺が離党を躊躇すると、小沢一郎は首班指名とひきかえに海部元首相の自民党離党をうながすという新たな作戦を画策する。


ここでも海部俊樹という政治家の実質はどうでもよく、自民党にゆさぶりをかけるというところに眼目があった。元総裁でありながら不遇をかこつ海部は、派閥のオーナーである渡辺よりも身軽で、引っ張りだしやすかつたわけである。


こういうのが小沢一郎の「剛腕」といわれているものなのだが、問題は、そこにはいっさいの説明がないことである。彼の明解な政治ビジョンとの整合性はなんら顧みられぬまま、なんの相談もなく突然、実行にうつされる。だから、彼の「側近」といわれた人々は、船田元から野田毅まで、みな不信感をつのらせて彼のもとを去ってゆく。そして彼の勢力はしだいに細っていったのである。


これからもし、小沢一郎が復権するときがあるとすれば、それは彼がみずからの理念に殉じたときである。そのとき、真の保守党が誕生する。そして与党はそれをこそ、恐れている。


「正義」は売り物か?

文筆家として、「正義を売る」ことだけはしてはならないというのは、先ごろ亡くなった山本夏彦の口癖だった。しかるに、なんと「正義を売る」輩の多いことか。


拉致問題でも、被害者への取材はもとより、家族やキム・ヘギョンさんへのインタビューまで、よくもまああんな無神経かつ汚い取材合戦を競えるものである。私のような品のいい人間はあきれるのを通り越して、その逞しさに感心させられる。


今回、「週間金曜日」は、平壌にいる曽我ひとみさんの家族の写真とインタビューをスクープし、「早くお母さんに会いたい」という娘の談話を大書して掲載した。曽我さんはショックを受け、すべての予定をキャンセル。当然、致被害者家族会は抗議し、世間の批判がわきおこった。


「週間金曜日」の編集長・黒川宣之氏は、緊急記者会見をひらいて、「曽我さんが動揺されたということを読者や皆さんが考えて、どういうふうにしたらいいかを考えるきっかけにこの記事がなればいい」

 と、のべたのだが、そんな「きっかけ」がほんとうに社会的に必要なのか。じつにヘンな論理である。


この件について、筑紫哲也キャスターはコメントして、


「被害者の動揺を誘う北朝鮮の戦術にのせられているだけだという批判のある一方、当人の肉声の中にはそれを超える情報があるという評価もあります。これは事実を知らせる報道にとって、永遠のジレンマといえます。国の方針に水をさす報道、取材はすべきではないという、こういう議論になりますと、北朝鮮となんら変わらない国に私たちはなってしまいます」


ごもっともである。だが、どこかおかしい。確かに何かがはきちがえられている。


それはとりもなおさず、「正義を売る」ことからくるうさん臭さである。「週間金曜日」はなぜスクープしたのか。正義のためか。いや、ちがう。部数をのばすためである。


筑紫氏自身のみとめているように、曽我ひとみさんの家族は自由な意見をのべることができない境遇にある。「事実を知らせる」にしても、そんな「事実」にいかなる価値があるだろうか。この報道でもっとも得をするのは、読者か? 国際社会か? 否。金成日ですらない。この報道の胴元自身ではないか。彼らは社会正義のためなどではなく、商売でだしているのだ。


神戸の児童殺害事件でも、写真誌が法を犯して、容疑者の少年の顔写真を載せたことがあった。あのときも、周辺住民の知る権利を守るために、すなわち社会正義のためにだしたという主張がなされた。ここでもまた、正義は売られたのである。


もしそうでないというなら、彼らはどうして小泉訪朝以前には、拉致問題にたいして、被害者にたいして、きわめて冷淡な態度をとってきたのか。金にならなければ、正義もヘチマもない、というのが現代のマスメディアの実像であり、しかもそこにいくばくの反省もない。


筑紫哲也愛用の「報道の自由」は便利な遁辞である。しかし実際は、国家権力対マスコミ、法規制対報道、という図式よりも、この場合、報道の倫理と商業主義、つまり「正義を売る」ことが問題なのだ。政府のミスは報道がチェックするとして、マスコミの報道は誰がチェックするのか。報道自身だと、筑紫氏はいう。


そうした「聖域」をもうけるのなら、それにふさわしい「聖職者」としての無私の報道姿勢を貫いてもらいたいものだ。筑紫哲也は番組のなかで終始、自分が「週間金曜日」の編集委員であることを伏せていた。その上、「反権力」の名のもとに問題をすりかえるなど、もってのほかである。


凸凹米国紀行〜ニューヨーク



商工会議所の産業ビジョンが主催したアメリカの先進産業視察旅行に参加した。


といっても、そうした先端技術にくらい私は、ひそかにべつの目的をもってこの旅行にのぞんだ。ブロードウェイ・ミュージカルやジャズなどのエンターテイメント、美術館めぐり、バスケットボールなどのメジャースポーツ観戦の三つである。米国という国に関して、ほかにあまり興味がわかないのである。


だから、ニューヨークについたその日に、ホテルに入ってすぐコンシェルジェに、ミュージカルとスポーツについて問い合わせた。正直にいうと、同行した野田さんという英語の達者な方に聞いてもらったのである。


その結果、その晩に、ブロードウェイで「キャバレー」というミュージカルを観ることができた。マジソンスクエア・ガーデンでは、折悪しく、スポーツの試合はなかったが、とにかくニューヨークは二晩しかないのだから、チャンスをのがすわけにはいかない。明晩は、ヴィレッジ・バンガードにジャズを聴きに行くことにする。


「キャバレー」は、ライザ・ミネリで映画化されたものと基本的にはおなじなのだが、今日風にアレンジされていた。それにしても、さすがに飛行機旅行の疲れと時差で、眠かった。とくにせりふの場面は、英語の不自由な私にはつらい。ふっと目がさめると、ダンスがはじまっていたりする。しかしそれを差し引いても、なんだかお上りさん相手の興行という感がぬぐえなかった。もしかすると、オフ・ブロードウェイのほうが私むきだったのかもしれぬ。


次の日はメトロポリタン美術館。セントラルパークの中にあって、規模と展示内容は、ロンドンのナショナルギャラリーと大英博物館を足したような感じである。とにかく、でかい。これを一日で見ようというのだから、どだい無理がある。

 というわけで、いちいちあげてゆくときりのないくらい名品ぞろいなのだが、私がもっとも離れがたく感じたのは、フェルメールの三枚。なかでも、「水差しをもつ女」である。窓からさしこむやわらかい光の充溢。手にした銀製の水差しの質感。そして椅子にのったクッションの青。そう、あのフェルメールの「青」である。まったくすばらしい。こればかりは、実物を見ないと話にならない。来てよかったと、しみじみ思った。


深夜、福嶋君と二人で、タイムズスクエア周辺をそぞろ歩きした。表通りは人通りが多く、危険はない。私はヴァージンで、ベックの新作と、セロニアス・モンクのリマスターCDを買った。深夜一時をすぎてなお、盛業中である。


CDをえらんでいると、白人の十代とおぼしき青年から、


「あなたの部屋のシャワーを貸してもらえませんか」


と、声をかけられた。彼はゲイなのか、家出少年なのか、私には判断がつかなかったが、いずれにしても私の返事はNОである。カフェでバーボンを飲んで早々に退散した。


マンハッタンのそびえ立つビルの谷間を歩いていると、なんだか即席コスモポリタンにでもなったような気になる。ニューヨークはたしかにエキサイティングな街だ。政治、金融、芸術、ファッション。すべてがここに集中し、眠ることなく動いている。


私も一年くらいなら、ここに住んでみたいと思った。しかしそのいっぽうで、その絢爛たる表情の底に、なにかうすら寒いような切迫した「貧しさ」を感じるのは、はたして私だけであろうか。


夜のパンセ



私のいる場所は「ここ」といわれる。「ここ」以外の場所を「そこ」という。


人間は断片である。なぜなら「ここ」にのみ存在しうる孤独な存在であるから。そしてそれは人間が死すべき運命にあるということを意味している。「ここ」は私だけの世界であり、「ここ」に没入することで、「ここ」が深く際限のない世界――すなわち、無底であることを私は直感する。この世界の底にある死と接するのだ。



人間は夜になると明かりをつける。自分の眼の明かりが消えるからだ。しかし生者も、眠れば死者に接続し、目ざめている時でも、眠っている自分に接続しているわけなのだ。


                      『ヘラクレイトスの言葉』田中美知太郎訳



ヘラクレイトスのいうように、睡眠において人は死と接続しているのである。眠りは、私を「ここ」に閉じ込める。目ざめていればじつに多くのものを必要とするが、眠りは「ここ」以外のなにものも必要としない。眠りは無底の世界への深い深い没入である。


このように、夜の世界には眠りがあり、その底には死がある。とすれば「ここ」にいる時、生の深層において、私は死とともにあるのだ。ところが、私たちはこの時はじめて、自分の世界に外部を見いだす。ふしぎなことに、私が「ここ」にたちかえるとき、「そこ」にあるものもまた本来の相貌をあらわすのである。

 私はまた、「そこ」にむかって開かれている。


「そこ」にあるものは生の論理を語っている。「そこ」に没頭するとき、私はみずからを忘れ、死を忘れる。

そして、ふだん「現実」と思われている白昼の世界は、「そこ」によって構成されている。それは共通の、公の世界として認識される。人はそこに住み、そこで暮らしている。私は共同の世界に参画し、さまざまな役割をこなす。しかしながら、この共同の世界もまた永遠ではない。人間同様、時の力によって毀たれ滅びる運命をになった死すべき存在なのだ。


人は二つの側面をもっている。集団的自己と個人的自己、白昼の世界にある私と、自分だけの世界にある私である。白昼の世界にある私は闘争と構築のただなかにいる。それをのりきるために、私は自己を架設し白昼の世界に足場をつくる――すなわち、演戯をはじめる。言葉をかえていえば、自己を規定し、そこに自己を追い込むのである。


しかもその自己規定は、過去の歴史と大自然の生命力とによらなければならぬ。無から有を創造できない人間にとってほかにいかなる手がのこされていよう。


人間は歴史によって生み出され、言葉のなかに生き、大自然によって表現されているのである。


友愛の裏側

「友愛」なんていうスローガンを掲げる政治家は、油断のならぬ策士か、それともお気楽なおぼっちゃんか、どちらかだと思うのだが、さて鳩山由紀夫氏はどちらだろう。

 衆目のみるところ、後者の容疑が濃厚なのだが、「ニュー鳩山」は前者であってもらいたいと、私は切にのぞんでいる。日本の国益を考えると、野党第一党の党首がバカの枢軸では困るのである。ついては鳩山応援団を結成しようと思うのだが、どうだろう。


それにしても、このたびの党首選では、サポーター制の裏をかいて旧民社党の組織票をとりまとめ、人気だのみの管直人をだしぬいた。ニュー鳩山のお披露目としては、上々の出来である。私はテレビで見ていて、サポーター票の開票結果をみせつけられた管さんの、なんともいえない敗北感にみちた苦笑いがひときわ印象的だった。


とはいえ、じっさいにシナリオを書いたのは、幹事長におさまった中野寛成氏であるのか。たぶん、そうだろう。しかし、そんなことはどうでもいいのである。ニュー鳩山は、権力維持のためには中野寛成のような政治屋を冷然とつかいこなすべきだ。と同時に、若手の突き上げを利用して、その勢力を制御することも忘れてはならない。


中野といういささか面倒な相手をおさえこめば、管、横路の両氏も、多少ぐずったとしても、そのうちこちらの軍門に下ってくるであろう。


で、問題は野田佳彦である。党首選にでてきたときは、この人だれ? という意外な登場だったが、話をさせてみると、なかなかどうして、面魂といい、簡明率直な演説といい、タンゲイすべからざる若武者ぶりである。数ある民主党の人気若手議員をおさえて出馬しただけのことはある。存在自体、鬱勃たる政治意思を感じさせる。こういうのがもっとも鳩山さんに欠けたものなのだ。ほおっておくと、まことにマズイ。


結論からいって、抱き込むしかない。俺の次は君にゆずるという言質をあたえ、味方にひきこむ。そうしておいて、ひそかに弱点をさがし、なにか襤褸をださせるほかあるまい。   


とにかく、こういうふうにしてライバルを次々に倒し、党内での権力基盤をまず安定させる。旧党派の壁をなくす唯一の方法は、それぞれの党派の親分を失脚させることだ。どんな手をつかってでもこれは完遂する必要がある。


以上、私設応援団としては、ニュー鳩山にこのくらいのことは期待したい。でなければ、民主党はいつまでも寄り合い所帯の万年野党の道を歩むほかないだろう。


政権をになうということは、あるいは国家を存続させ秩序を維持してゆくということのためには、当然犯さなくてはならぬ悪というものが存在する。その端的な例が軍事力である。それゆえ非武装中立をとなえた党は、ついに責任政党たりえなかった。


真に責任をもつということは、こうした悪にたえるということなのである。だからこそ、「友愛」というような大義名分がよびもとめられる。それは悪にたえるためにこそ、必要なのだ。オールド鳩山は本末を転倒していた。ニュー鳩山は悪をおそれず、悪とたたかい、あまつさえ悪を飼いならすべきである。それでこそ、政権担当能力のある責任政党の党首たりうるのである。曰く。


鳩山由紀夫よ、悪人たれ。


フレーフレー、鳩山由紀夫。日本の将来はあなたの肩にかかっている。



もう一つの『国民の歴史』

 柄谷行人著『日本精神分析』を読んだ。


 精神分析なんてタイトルだが、じつはこれは日本論である。そしておそらく、本人はふせているが、西尾幹二の『国民の歴史』への批判がモチーフとなっている。彼は保守派の日本論を否定するためにこれを書いたといっていい。


 まずだいいちに、『国民の歴史』と同様に、日本語の成立から説きおこしている。


 古代の日本人は漢字を輸入しながら、かな文字を発明して日本語表記を可能にしたばかりか、漢文を「訓読み」という方法で、日本語として読んだ。これは世界にも類例のない事例である。


 たとえば公用語が英語となってしまった旧植民地のアジア諸国のような場合とちがって、日本は漢字を利用しながらも、その支配的な影響はうけなかった。


 ここまでは『国民の歴史』と同じである。


 ただし西尾幹二はそれを、日本文化の強さの証明だと考えているのにたいし、


「それを日本のユニークさを裏づけるものとしてナショナリズムの根拠にすることに、私は興味がありません」と、柄谷行人はのべている。興味がないどころか、彼がそうしたナショナリズムのありかたを嫌悪し侮蔑しているのは明らかだ。


 日本人は古来、外来の文明を受け入れるたびに、仏教、儒学、クリスト教などの世界観をも受容してきた。そのため私たちは、家に仏壇がありながら、クリスマスを祝い、その数日後には初詣に行く。


「外から導入された思想は、けっして抑圧されることなく、たんに空間的に『雑居』するだけである」と著者はのべていて、私もまったく同感である。


 冒頭の日本語の問題にもどしていえば、日本人は訓読みを発明したが、それは、漢字を受け入れながら、受け入れていないということなのである。日本の文化にはそういう逆説がある。外来文化はたがいに干渉しあうことなく、「雑居」している。それゆえにこそ、日本は開国以来、世界史上類例のない速度で近代化をなしとげることができたのだ。


 柄谷行人は、そこに「日本に特に何か内在的な力があった」とみる保守派の見解を根底から否定する。彼にいわせれば、日本はたんに幸運だったから、ということになる。


 訓読みで漢文を日本語として読むことが許されたのは、日本が中国の直接的な軍事支配をうけなかったからである。そのために中国語の使用を強制されることはなかった。日本と中国の間には朝鮮半島と日本海があって、幸運にもそれは、文明の影響はうけつつ支配はされないという、じつに適度な距離だった。彼はそういうのである。


 プラグマティックな視点からいえば、たしかにその通りである。私もまったく同感である。しかしまだ先がある。以上の理由から、日本の伝統と考えられているものはたんに偶然の産物にすぎず、なにもその歴史の長さに重きをおく必要はぜんぜんないと著者はいうのだ。ここまでくると、私は彼の主張に同意することはできない。


 それが偶然によるものであろうと幸運によるものであろうと、私たちの存在は日本の歴史によって生みおとされたのであって、その逆ではない。したがって、日本の伝統というものを否定することは、自分自身を否定し抹殺することなのである。


 日本の本質的な弱点や、現代の議会制民主主義の構造的欠陥を描いている点で、これは最高におもしろい本なのだが、その主張の明解さは、歴史の実質というものを無視することで成り立っていると、私の眼にはうつる。


 しかも柄谷行人がいくら侮蔑しようとも、ナショナリズムは永遠になくならない。なぜならその核にあるのは、ほかならぬエゴイスムであるから。この問題を避けて通る以上、彼の提唱する平和運動も遠からず挫折するであろう。


現代犯罪についての反時代的考察



 動機なき凶悪犯罪。そういうものは都会で発生するものだとばかり思っていたが、近ごろは地方でも頻発する。先日宇部で起きた通り魔事件も、起こるべくして起きたものと考えるべきであろう。


 で、最近の犯罪には、ある現代的な特徴がみてとれる。


 それは、サルトルの言葉でいえば、ある種の「ルサンチマン」から発している。平俗な表現になおすと、煮詰まった不平不満である。


 このルサンチマンの暴発というかたちの不条理な犯罪がふえている。ただしそれは、サルトルのいうような「階級闘争」によるものでなく、もっとパーソナルなものである。


 池田小学校の乱入殺傷事件で殺人罪などに問われている宅間守被告は、公判で次のようなを陳述した。


「恵まれた子供も、自分のような将来の展望のない者に、たった五、六秒でいつ殺されるか分からないという不条理さを世の中に分からせたかった」


 そこには、自己との絶望的な不均衡が存在する。


 彼はのぞんでいた私立中学への進学を断念させられた。経済的にも、本人の学力においても、無理だったという。その時、彼は自己の現実を拒否した。両親が、社会が悪いと結論づけたのだ。同様に、自分の「不幸」な生い立ちを語りながら、彼は両親、教師、元妻、社会への憎悪を剥き出しにし、いわれなき復讐を示唆している。


 しかしこうした心理は、じつは現代社会の深層に蔓延しているのではないか。誰しも、金持ちで頭脳明晰でスポーツ万能で、ハンサムのほうがいい。私だって、そうだ。だが、現実はきびしい。誰もがみたされぬ思いをいだいて生きている。


 ある女性が私に語ったことがある。世間は見た目より中身が問題だというけれども、それはウソだ。男性にももてるし、就職だって結婚だって、絶対に美人が有利なのだ、と。


 そのとおりである。「金持ちだから幸福とはかぎらないし、貧乏に生まれたからといって不幸とはかぎらない」というのはよくきく話だが、実際には金持ちのほうが幸福になるチャンスが多いにきまっている。


 ただしかし、こういう逆説によって、古来人々は自己の現実との折り合いをつけてきた。これは一つの知恵であり、軽々に否定さるべきではない。が、現代においてはこの逆説が通用しなくなってきている。一つには戦後民主主義教育の教える浅薄な平等思想のせいであり、もう一つは、グローバリゼイションという名の拝金主義の流行による。いまやルサンチマンはいくえにも堆積するいっぽうである。


 むろん、機会均等な社会への改革は必要である。だが、それも限度があるし、だいいち人生は一度きりであるから、とても社会改革の完了など待ってはいられない。


 だとすれば、どうすればいいのか。宅間被告のような人は、不平等な現実をけっして受け入れず、怒りを社会や両親ら他者に転嫁した。その結果、彼の心は均衡を失い、憎悪と憤怒によって腐敗したのである。彼は亡霊のような人生をおくったのだと思う。ある意味、その気持ちは私にも痛いほどよく解かる。


 なぜなら不平等な現実には、かりにそれを受け入れてみても、少しも救いはない。少なくとも、そう見える。しかしながら、人生においては救いがないこと自体が、救いなのではないか。みずからの宿命を受け入れなけれは、私の人生というものはなく、私自身、存在しえない。そして、案外、その現実をうけいれ、自分の人生を生きてみるところに、救いはあるのではないだろうか。さいきん、そう思うようになった。


 いずれにしても、このままではますます多くの凶悪犯罪が横行することになろう。現実からの逃避は自己喪失へと道を通じているのだから。

ポピュリズムについて

 田中康夫長野県知事の失職について、S田さんがいった。


「田中康夫は嫌いだけど、今回の件は彼の方が正しい」


 彼は私の大学の後輩なのだが、私など及びもつかぬ政治感覚がある。彼の短い言葉にすべては凝縮されている。


 私も田中康夫の気障ったらしいスタイルがキライだが、よく考えてみると、それはまた彼の戦略でもある。つまりテレビや雑誌などのつかいかたを見ても、彼は「ポピュリズム」というものを心得ていて、それをうまく利用する術を知っている。それがまた、私の気に障るところなのである。


「皆は俺の心よりは俺の帽子の方が欲しいとみえる。そういう分別の持ち主とあれば、これからは人気取りに精をだし、わざとらしく帽子を脱いでみせもしよう」


 田中知事の言葉といいたいところだが、そうではない。シェークスピアの『コリオレイナス』のせりふの一部である。この作品は、政治的常識の宝庫といわれていて、じつに洞察的なせりふにあふれている。


 たとえば、民意とか世論というものは、「まったく頼りにならぬ。むしろ氷の上の火の方がまだましだ。日の光を浴びた雪の方がまだ頼りになる」とある。田中真紀子が聞いたら、まさにその通り、というだろう。彼女もまた、ポピュリズムを背景として登場し、一時期は首相候補ナンバーワン人気だった。しかしいまや、「氷の上の火」のごとく消えつつある。


「民衆から愛される者もいた。といって民衆自身、なぜそいつを愛するのか一寸もわかってはいないのだ。なぜだか解からずに好かれるのなら、同様に、何の理由もなしに憎まれてもしかたないということになる」


 これは、田中真紀子のみならず、小泉内閣の支持率にもあてはまる。実質的な内容のない「改革」という旗をふりまわして、改革が実現すれば万事うまくゆくようなイメージを醸成し、しかもスマートな小泉首相自身のキャラクターを重ね合わせた。改革派はヒーローで、抵抗勢力は悪役。支持率をささえたのは、それにのせられたあやふやなムードである。


 佐伯啓思のいうように、国民が期待したのは、政治上の「メイクドラマ」であり、ムネオやマキコやキヨミが活躍する刺激的な見世物であった。支持率の低下は「メイクドラマ」への失望感と、そしてそれ以上に、この見世物に飽きがきているからである。


 現代人は、ローマ帝国末期のように、パンと見世物だけを政治に要求するようになっている。パンは経済であり、見世物は娯楽、行政サービスである。しかし真に民主主義を信じ、主権在民を標榜するなら、われわれはもっと本質的に考えなくてはならない。われわれの社会を支えるものは何かという問題について。


 戦後日本を支えてきた体制、価値観は硬直し行き詰まっている。「改革」や「脱ダム宣言」は、その破壊・再建の手段にすぎない。目的はその先にある。ところが手段が目的化され、「なぜだか解からず」に支持や不支持がきまる。ほんとうに決断するためには、あらかじめあるべき社会のビジョンを保持している必要があるのだが、そういうものは顧慮されずにかまびすしく議論はなされる。


 ポピュリズムといえば聞こえはいいが、何のことはない、衆愚政治ということだ。豚は宝石よりも藁草を好む。われわれが衆愚と堕さないためには、パンと見世物以上の価値があることをまず認めなくてはならない。のみならず、愚者の蜜をしりぞけ、賢者の毒をあおること。そして真理の前に謙譲であること。われわれはいま、試されているのである。

日本よ、汝自身を知れ

今回の審陽の事件にはまったく失望させられた。領事館員の対応に、ではない。私が失望したのは、この件にたいする大新聞や評論家の、ひいては日本国民全体の、底の浅い認識にたいしてである。

領事館の危機管理はあんなものだろう。なにも驚くにはあたらない。ところがマスコミはこぞって、外務省の不甲斐なさを槍玉にあげ、ガイドラインや危機管理マニュアルの欠如を批判する。たとえば、とある大新聞のコラム氏は、あのビデオを見て、「恥ずかしさで顔がほてる」と書き、
「人間の良心があれば、悲鳴をあげる女性をそのままにして事態を傍観することはとてもできないだろう」

と慷慨し、しめくくりに外務省改革の必要性を説いている。なにもこのコラムにかぎらない。これがおおかたの論調である。まさに、人間不在の論理ではないだろうか。

私は、問いたい。それでは、あなた自身はどうなのか、と。
  というのも、領事館の、あのだらしのない無責任な小心さこそが、平和大国日本の実像なのである。それが今回の事件の本質にほかならない。いいかえれば、あの腑抜けの副領事は、実のところ、われわれ自身のすがたを映している。どうしてそのことに気づかないのか、私は首をかしげる。

かりに政治難民が国内に逃げ込んで、外国の軍隊が武力でそれを奪還しようとしたとする。そのとき、日本政府はどのような対応をとれるだろう。自衛隊の戦闘機は、領空を侵犯した敵機にたいしてスクランブル発進しながら、機銃もミサイルも発射することは許されてはいない。もし攻撃をうけても、対応するガイドラインなどない。パイロットは立ち往生する。その間、内閣がだらだらと会議を続けているうちに、すみやかに敵の作戦は終了しているはずだ。

つまり日本とはそういう国だ。国自体に危機管理のガイドラインがないのに、どうして外務省だけを批判できようか。しかもマスコミこそ、ことあるごとに危機管理のガイドラインづくりに反対してきた張本人ではないか。しかも、国家の主権・威信というものを忌避しつづけてきた。だからこそ人間不在の論理だと私はいうのだ。いまさら何をいっているのか。もっと自分自身というものを見つめてみる必要がありはしないか。

正義とはなにか。すくなくともそれは、不正がないということではない。なるほど行動しなければ、悪は犯さぬだろう。だがそれは悪でないと同時に、善でもない。プラスマイナス、ゼロだ。

同様に、「戦争をしません」というのは、べつだん誇るべき価値でもなんでもない。それは消極的概念にすぎぬ。それにひきかえ平和を維持し、国家間の信頼関係をつくりあげることは、あくまで積極的概念であって、主体的行動をしない日本的平和主義にそれを期待することはとうてい不可能である。

国際社会では、いまだ暴力が野放しとなっている。中国はかつて、おなじ共産主義国家であるベトナムに『教育』と称して攻め込んだ。それが中国の本質であり、そういう国は世界にごまんと存在する。その場合、危機管理を米国に依存し、手前勝手な平和主義を鼓吹することは、「人間の良心があれ」ば、「恥ずかしさで顔がほてる」くらい卑怯陋劣な行為ではあるまいか。汝自身を知れ、とソクラテスはいった。もうそろそろ、日本はみずからの偽善と感傷に気づくべき時期である。

カナリヤの悲鳴

「坑道のカナリヤ理論」というのをご存知だろうか?

鉱山では、かつて坑道に入るときカナリヤの籠をかならず持参した。というのも、なにかガスなど発生すればすぐにカナリヤに異常がでる。要するにセンサーの役割をはたしていたのである。

同様に、ある種の人びとはカナリヤのように繊細で、政治や社会がきな臭くなってくると真っ先に反応して悲鳴をあげる。文化人や知識人は本来「坑道のカナリヤ」であるべきで、センサーの役割こそがその使命である、というのがその眼目である。

これは大江健三郎などがよくもちだす「理論」で、いいだしっぺはカート・ヴォネガットである。はっきりいってしまえば、自分をかよわいカナリヤだと認定しているわけで、けっこう気恥ずかしい自己主張ではある。カナリヤどころか、かえって図太い神経の持ち主じゃないかと思われるのだが、どうであろうか。

さいきん、ほうぼうでカナリヤが悲鳴をあげている。「個人情報保護法案」「有事法制」から、はてはフランス大統領選での国民戦線ルペン党首の決選投票進出まで。彼らは口をそろえて、いう。

「これは、危険です」「戦前の暗黒時代がもどってくる」

大衆の生理的不安感をあおる。それが彼らの手法である。

カナリヤたちは、どんな小さな危険の芽もあらかじめ摘んでおかずにはいられないらしい。しかもそれが可能であると思いこんでいる。私はこういう小心な猜疑心に我慢がならない。

なにも私は「個人情報保護法案」や「有事法制」に無条件に賛成しろといっているわけではない。むしろ、こんな中途半端なものでは百害あって一利なしだと考えている。もっと、根本的な見直しが必要であることはいうまでもない。

ただし、いずれにしてもカナリヤにはとても無理な仕事である。シビリアン・コントロールというものはきわめて強固な意志を必要とするのだ。過剰取材の自主規制にしても、同様である。大衆への迎合を自制する主体性が彼らにあろうとは思えぬ。踏絵を踏ませれば、ほとんどはすぐに転ぶに相違ない。

つまりこういうことだ。たとえば飛行機の利用を考えてみるといい。飛行機には墜落事故はつきもので、いくら安全性を向上させても、その可能性はゼロにはならない。それでも飛行機を利用しようとするなら、危険をうけいれ安全への努力を継続しつづけるほかにない。事実そのようにして人間は生きてきた。それが人間の生きかたというものなのである。リスクをとらなければ、なにごともなしえないではないか。結局、必然悪というものにどのくらい堪えられるかということなのである。

いまは「弱さ」が礼讃される時代である。最初に悲鳴をあげる人間が大切にされる。その繊細さを崇高なものとみる。しかしそれはまちがいだ。なにかがはきちがえられている。

けっして悲鳴をあげようとしない人間。困難と危険に堪え、他人をあてにせず最後まで独力でやりぬこうとする人間。私はそういう人にあこがれる。とはいえ彼も人間である以上、いつかは壁につきあたり、みずからの限界を痛感する時がくる。いかなる強者も最後の最後には、悲鳴をあげる。だがそのとき限界は、彼個人のものというより、人間そのものの限界となる。そこで聞かれる悲鳴は、人間存在そのものの発する悲鳴なのである。


私の国語教室

大学の後輩、それも現役学生で、学部も同じ文学部の後輩と話す機会があった。いろいろとさいきんの学部の様子を聞いているうちに、必修科目から国文学が消えたと聞いて驚いた。

そもそも私のでた文学部というのは、受験のときに英文科とか哲学科というふうに分かれているわけではなく、入学してから一年後に自分で専修科目をえらぶシステムになっている。とはいえその後もかなり自由に好きな講座を選択できる。つまり、必修科目というのは最低限度におさえられ、学生はみずからの目的にそった勉強のプランをたてられるようになっているのである。

私なども好き勝手な学習プランをたてたおぼえがあるが、それでも必修科目というものがあって、手を焼いた。英語と第二外国語と、国文学である。私は国文学が苦手だった。高校のときにまともな勉強をせず、受験のための付け焼刃の知識しかない。そんなもの何の役にもたちはしない。

前期の試験では、なんと、いきなり源氏物語が出題された。しかも問題文は写本のコピーで、バリバリの変体仮名・筆文字である。そんなの不勉強な私に読解できるわけはない。目の前が真っ暗になった。結果はもちろん、不可。恥ずかしながら、いまだに夢にうなされることがある。

生命政治について」
しかるに、その国文学が文学部の必修から消えた。私は快哉を叫ぶべきかもしれないが、じつのところその反対に、がっかりした。というのは、私はその後、そうした国語教育の重要性というものに気づいたからである。

たとえば、漱石の生原稿を読むと、彼はところどころ変体仮名を使用して書いている。あるいは年配の女性からお手紙など頂戴すると、やはり変体仮名をつかってある。ふーん、これがオーセンティックってやつだなと、へんに感心した私は、自分もマネしようと悪戦苦闘したものだ。かつては、紫式部が現代とつながっていた時代がたしかにあったのである。私はそこにあこがれを感じた。

戦後、むつかしいからと、旧仮名を新仮名に改め、新漢字をつくり、しかも漢字を制限した。そのために古典との絆が弱められた。私自身、源氏物語を原文で読むより、英訳で読むほうが理解しやすい。そのくらいひどい伝統文化との断絶がある。とすればそれは改良ではなく改悪ではないか。

つまり私がいいたいのは、へんに物かりのいい教育方針が人をダメにするということなのだ。だから「ゆとりの教育」なんて絶対反対だ。どうして子供に学習への努力をもとめてはいけないのか、そこが解からない。円周率を三でもいいということにしたというのが、その象徴的な事例である。それは真理の切り下げにほかならない。どうしてそこまで歩み寄る必要があるのか。

理想を高く掲げるということを教えるのが、教育のエッセンスである。知的水準の低下がいわれて久しいが、こうしてハードルを下げれば下げるほど、ますますレベルは落ちてゆく。知的水準だけではない、むしろ恐ろしいのはモラルの退廃だ。

しかし世の中すてたものではない。福田恆存の名著『私の国語教室』が再刊された。新潮から単行本で出たのは昭和三十二年。その後、新潮文庫で版を重ね、それが絶版となってからしばらくして、中公文庫から再刊。それが今回、ふたたび文春文庫で復活した。

この本は「正仮名・正漢字」の正統性を主張してゐるのだが、そのはうが美しいとか、さういふあいまいな主張はまるでない。徹底的に文法的な合理性を論証することでなりたつてゐる。そしてその背後には、日本文化への燃へるやうな愛がある。しかも、文章がいい。面白い。ぜひ一読をオススメする。

女は世界の奴隷か

遥洋子というフェミニストのコラム「働く女性の目」によると、働く女性は三つのタイプに分類される。挑みかかり栄光をつかむ「栄光」と、寵愛による地位安定をはかる「安定」と、男にすりより同化する「同化」の三つである。しかもそれぞれのタイプの代表として、「栄光」に田中真紀子前外相、「安定」に扇千景国土交通相、「同化」に川口順子外相をあげ、「まだ時代は田中的戦略より扇的戦略か。まず仕事より化粧だ!」と結論づけている。さらに川口外相については、「媚びを媚びとして売らないもっとミジメな媚びがにおう」と攻撃されている。

とすればこれは、三つのタイプというよりも、上中下の三段階評価というべきだろう。もっとはっきりいえば、世の男性にどのくらいタテツイタかという成績表である。そしておそらく、辻元清美は「栄光」に分類されるはずだ。

これがフェミニズムというものなら、それはじつにくだらない理論だと私は思う。従順と抵抗の差があるだけで、これでは結局、男の論理で女を裁いているのと同じではないか。私はジェンダーをみとめないわけではなく、男性中心の社会構造が女性の「栄光」を圧迫している現実が実在することを知っている。にもかかわらず、女の敵はむしろ女なのではないか、と思うことがしばしばある。

田中真紀子や辻元清美の挫折の背後にあるのは、男中心社会という時代的拘束ではなく、「田中的戦略」の拙劣さである。いや、それは戦略というにも値しない、単細胞で低次元なエゴイズムだ。

彼女たちの特徴を一言でいえば、「わがまま」である。世間のものごとや他人の心情は手前勝手な解釈でうのみにして、づかづか土足で踏みこんでゆく。そのさい他人の心を傷つけたことにはそしらぬ顔で、万事みずからにつごうよく事をはこぶ。そのくせ自分のこととなると、ささいなことにも屈辱を感じていきりたつ。これを誠実といい、栄光というなら、その人はあまりにもこころ貧しい。

人がエゴイズムを存分に発揮するさまを見るのは、自分に火の粉がふりかからぬかぎり、なかなか楽しいものだ。田中真紀子や辻元清美の大衆的人気をささえているのは、そういう気分である。しかし彼女たちがみずからの精神的態度を真摯に反省するなら、とてもああいうふうに天真爛漫なエゴイストではいられないはずだ。かりにみずからを省みれば、もう少しものの言い方もちがってこざるをえない。自己否定をへていない自己肯定は単純というにすぎないのである。

たとえば辻元清美も、ピースボートから今日にいたる自分の来歴を真剣にみつめてみれば、鈴木宗男にたいして、「ど忘れ禁止法を適用しますよ」なんていえなかっただろう。自分を正義の体現者だとカン違いしている人ほど、モラル意識は低いのだ。
 われわれは男であり女であるより、まず人間である。同様に、政治的戦略よりも、普遍的真理が優先する。社会制度改革よりも、愛や信頼のほうが大切なのだ。そしてそれさえわきまえていれば、高度に戦略的であっていいし、できるかぎりエゴイズムを発揮してもいいのではないか、と私は考える。

だいいち、うまく化粧しただけで自分の意見が通るなら、こんなたやすいことはないじゃないですか、遥さん。美を手に入れ、しかも万事順調にゆく。一挙両得、鬼に金棒というものだ。

最後に私の個人的な感想をいわせてもらえば、女は世界の奴隷どころか、まさに世界の支配者である。男はその支配に抵抗することなく、奉仕の喜びすら感じている。

生命政治について

ちょっと前の話だが、ジャン=リュック・ナンシーが、毎日新聞に「生命政治という用語についての註」という論文を寄稿していた。彼は「無為の共同体」という著作で知られるフランスの哲学者で、ジャック・デリダらの一派だと記憶している。

私は本欄を担当するようになった当初、○部○報のS先輩から、
「君の文章はむつかしすぎるぞ。新聞というのは高校生でも読めるように書くのが常識だ」と、叱られた。私はわりに聞分けのいいほうなので、それ以来やさしく書くように努力しているつもりである。
 しかしこのナンシーの論文の難解さときたら、高校生どころか、おそらく哲学研究者も頭をひねるしろものである。もともとのテクストがフランス人らしいきどった修辞にみちているのにもってきて、とても日本語とはいえぬひどい迷訳で、ほとんど理解しがたいレベルに達している。
 それでも古代文字を読むような悲壮な覚悟で読み解いてみると、これがなかなか面白い。「生命政治」というのはつまり、堕落の形式である。たとえば古代ギリシャの都市国家における政治は、個人の信念と社会正義の両方に足をかけた共存の形式であった。ところが、現在の政治は、ただ生命の維持管理以外の形式をもたない。彼はそれを「生命政治」と名づけるのである。
 かつては生命を超える形象、つまり至高の価値というものがあったと、ナンシーはいう。それは十字架であったり、王冠であったり、「プロレタリアート」であったりした。人びとは同じ理想を眺めながら、共通の目的をもって共同体を形成していた。ところがポストモダンになって、生命を超越した理想というものが否定された。生命は地球より重いのである。
 形象の欠如は裏をかえせば、人間不信ということだ。ひとびとは、人間の真実を信じないがために、また他人を信じないがために、それを押さえつけ、外部から規制しようとして、いわば人間の悪、他人の害意とたたかうために、政治や制度に頼ろうとする以外に道を見いだせなくなってしまったのだと私は思う。

そこから必然的帰結として出てくるものは断片の集積としての社会である。そこでは多数決が最高の原理であり、「最大多数の幸福」が追求される。他者の暴力によって個人の平穏が蹂躙される機会が少なくなるいっぽう、人は他動的な禁欲主義を科せられ、かつ社会システムによる監視という手段にうったえた陰湿なエゴイズムの抑制がおこなわれる。したがって理屈の上では、悪は制度のうちへ吸収されてしまう。しかしその背後には、他者への――ということはつまり、人間それ自身への不信感が根強く巣くっている。
 それならば現代人の理想とは何か? 少しでも長く生き長らえることだ。生命の維持。しかしながら、本来、何事かをなしとげるためにこそ、健康と長寿は必要なのではないか。それはあくまで条件であって人生の目的ではないはずだ。生命の維持はけっして理想の名に値しはしない。これでは価値の転倒である。

「生命政治」とは、こうした現代の世界像を示唆する用語である。それにしても、断片と化し孤独に落ち込んだ個人は、どうしたら原初の幸福へとたちかえることができるのだろうか。それだけはジャン=リュック・ナンシーも教えてはくれない。

絶望への復帰

                        上

「ポワゾン」という映画をみた。平凡な男がとんでもない悪女に出会って人生を狂わせられるという、ディープな恋愛映画である。主人公は女に騙されているのを承知で、命をかけ、ついに恋を成就する。

主演のアンジェリーナ・ジョリーがじつに魅惑的な好演で、私はすっかりファンになった。

「いちど、ああいう悪女と恋におちてみたい」
 と、私が話したら、同級生の女友達に、

「あなた、ほんとうは死にたいんじゃないの」
 と、いわれて驚いた。私の発言がよほど意外だったのだろう。自分のことはよく解からないが、たしかに以前よりも、「死」を身ぢかに感じているのは事実である。
 文学青年だった私も、若いころ抱いていた甘い理想主義はすでに死滅し、人間はどうしようもなく孤独であり、人と人との間に橋を架けることはできないとおもい知った。生は死とともにあり、瞬間こそが永遠なのだ。
 死を絶望といいかえてもいい。絶望的だからとあきらめてダメになる人間は、ダメになるがいいのである。が、面白いことに、少なくとも私に関しては、死とつきあうようになった最近のほうが、以前よりも、現実の味気なさに辟易させられなくなったし、むしろ行動的にもなった。絶望が思考を鍛え、死が生をよびさますのである。
 それゆえ私はあえて、絶望への復帰を唱えたい。これこそが、末世を行きぬくための精神の政治学である。私は絶望へと復帰しないあらゆる思想を偽善とよぶに躊躇しない。
 たとえば今回のダイエーの再建計画をみていても、なぜ絶望をうけいれずに、中途半端な支援を行うのか、首をかしげる。ダイエーは有利子負債が一兆七千五百億円にたいして、経常利益はたったの八十億円しかない。ということはつまり、負債圧縮もたしかに必要だが、再生への鍵は、それよりも売上をのばし高収益な事業展開へと転換することにある。しかるに今回の再建案には、そのいちばん肝心な部分が抜けおちている。
それも無理はない。なぜなら、普通に考えてそれは不可能だからだ。現実は絶望的なのである。
 小泉首相も、ダイエーはつぶすには大きすぎると考えているようだが、それは甘い認識である。国がささえるとならば、ダイエーも支援銀行もさらに気がゆるみ、再建など絵に描いた餅となるだろう。もっと現実に絶望すべきなのである。ダイエーを、いや日本を真に再生させようと考えるなら、傲然と突き放すべきだ。こんなことで足元がゆらぐようでは、「構造改革に聖域なし」などといえた義理ではない。
 むろん、あいまいな希望をすて、絶望に復帰することは、かなり困難な作業である。私自身、それができているかといえば、はなはだ心もとないのである。しかしながら虚飾をはぎとり澄んだ目で現実をみつめてこそ、真に意味のあるものが見えてくるのではあるまいか。死によってのみ、生の明るみは保証されているのである。

                      中


 前回、映画に出てくるような「悪女」に出会ってみたいと書いたら、いろんな人にひやかされた。おもうに、よほど意外だったのだろう。
しかしながら、私のようなおよそ野暮な人間でも、そういう激しい恋愛へのあこがれはある。いや、誰しもあるからこそ、そのての映画やドラマへのニーズがあるのだろう。それなら実地に体験したほうが、ディープな経験にきまっている。まあしかし、その代償も大きいので、私のような小心者にはいささか荷が重い。
 真面目な話、人間は生の継続と安定のみをのぞんでいるわけではない。破滅への衝動、死への憧憬。これもまた人間のもつ基礎的な要求のひとつではあるまいか。というのは、私たちの心の底には、生命と交換することも辞さぬほど大切な価値というものへの渇望が眠っているのである。
 ところが、きれいごとばかりならべた現代の言説には、そういう人間の地下世界への言及は少しもみられない。大江健三郎や坂本龍一の説く甘い平和論をみるといい、そういう人間のもうひとつの顔を無視することで成り立っている。
今回の田中真紀子外相の更迭劇をめぐる報道をみていても、同じことを感じる。その中で、あるコラムに、今回の事件を芥川龍之介の「藪の中」にたとえて論じたものがあって、唯一おもしろかった。つまり、田中外相、野上外務次官、鈴木議員の三者の証言がくいちがっていて、誰かが嘘をついているが、真相はふせられているというのである。しかし私が考えているのは、もっとべつのことだ。
 コラム氏は、あけすけにいえば、真実をいった田中外相は善玉で、嘘をついた鈴木・野上両人は悪玉だという、「水戸黄門」的史観にもとづいている。が、私はそんなオメデタイ人間観にはつきあいがたい。
 というのは、鈴木・野上の両人は、田中外相を更迭に追いやったことに、世間からなんといわれようとも、国益にかなう正義をおこなったという自信をもっているはずだ。私自身、省内にひとりの味方もつくることのできなかった田中外相では、外務省改革なんてできるはずはないと思う。そしていうまでもなく、外交はマイナス百点。私も外相更迭を歓迎する。
 いっぽう田中女史は当然のことながら、自分こそ正義だと固く信じている。むろん彼女は真実を語ったのだが、しかしそれも旧竹下派との政争の具として使ったまでのことで、国益全体を熟考した上での行動だとはとてもいいがたい。
 混乱させるわけではないが、三者のうち誰にも正義はあり、虚偽もある。そういうものだ。

 絶望へ復帰せよ。私はそう低くつぶやく。この世では、ひとりの人間が唯一の正義を体現することはない。同じ人間の中に、誠実と狡猾、愛と憎しみ、善と悪、真実と虚偽、そうした二つの自己が同時に存在している。人間には引き裂かれた悲しみの基盤があるのである。
 いうなれば、人間は徹底的に孤独であり、それゆえに愚かなエゴイストなのだ。追いつめられれば何をしでかすかわからない。私はそのように絶望している。だがしかし、そう考えてこそはじめて、自分のエゴイズムと戦う用意がととのうのではあるまいか。

                  下

もう去年のことになるが、商工会議所の議員総会で田原総一郎の講演を聴いた。政界の裏話をからめながら、日本経済の現状と将来について語ったのだが、結論からいえば、すすんで「グローバリズム」を受け入れるべしという主張だったように思う。象徴的にいえば、終身雇用をかかげた松下幸之助的価値観から、カルロス・ゴーン的な機能第一主義への転換ということになるだろうか。じじつ松下電器は終身雇用制の放棄を宣言した。しかし日本企業の改革はいまだすすんでいないのである。
 その一例として、田原氏は日本人は評価がヘタだといった。たしかにその通りである。
これはつい最近あったことなのだが、私の新事業にたいして、取引のないある銀行が融資を申し出てきた。私が抵当をさしださなかったので結局おじゃんになったが、それにしても彼らは現時点での経営内容には高い関心を示したが、私がこれからやろうとする事業の計画や将来性についてはおざなりの質問しかしなかった。つまり彼らにとっては、あくまで十分な  担保がとれるかどうかが問題なのであって、事業の将来性など二の次なのである。
 事業の将来性に投資しようとすれば、その事業内容を評価しなくてはならない。それがヘタだと田原氏はいうのである。私も同感である。銀行の悪口をいっているのではない、私自身そういうところがあるからだ。
 評価は賭けである。海外の投資家は失敗にへこたれない。また次がある、と平気である。これは新しい緑地をめざして移動し、新天地を奪いあう遊牧民の文化だ。
いっぽう日本は伝統的に農耕民の村社会であり、譲りあいがキホンとなっている。その人が田んぼを何反もっているかで評価がきまり、「出る杭は打たれる」と警戒する定住型文化である。和を重んじ、なれあいを好む。
 したがって田原氏の主張は、つきつめると、「村社会から遊牧民の社会へ」という日本の歴史的大変革を意味している。これは大変なことだ。たんに経済のみならず、私たちはこれまでの生きかたを根本から変更せざるをえないのである。私は講演を聴きながら、田原氏はそのことをどのくらい深く理解しているのだろうかと、ちょっと疑問だった。
のみならず、グローバリゼーションというのは要するに、地球がせまくなり競争が極度に激化してきたことを意味している。地球は競争のるつぼと化したのだ。これを手ばなしで礼讃していいものか。
 アメリカ社会をみるといい。本来遊牧民であるはずの彼らさえ、厳しい競争にたえられず、社会は暴力と逸楽に病んでいる。婦女暴行、ドメスティック・バイオレンス、幼児虐待、無差別殺人、自殺、薬物中毒、家庭崩壊、その他いろいろ。それがすべてとはいわないが、過度な機能主義のあたえるプレッシャーがその底流をなしていることは、疑いえない。
  いやもう日本もそうなりつつあることは、誰しもみとめるところだろう。が、私は保守主義者のようにグローバリゼーションを拒否せよとはいわぬ。それは必然だから。とはいえ、これと真剣にたたかう覚悟は必要だと思う。しかもそれは歴史上類例のないタフなたたかいとなるはずだ。 
 いずれにしても、こういう問題にはつごうのいい解答なんてありえない。世間に流布している景気のいい処方箋は、ことごとくペテンだとこころえるべきだろう。むしろ大変革など不可能であり日本文化は死ぬのだという絶望に立つことこそが、再生への第一歩なのではあるまいか。

曲解『論語』集

「朋あり遠方より来る、亦楽しからずや」
 私はこれまで、交友関係を広げないために、私流の「非核三原則」を堅持してきた。すなわち、「友情をつくらない、つくらせない、持ち込ませない」である。けっしていいことではないと解かってはいるが、これ以上友人がふえると書斎にすわっている時間がなくなってしまうので、それもいたしかたないとあきらめていた。
ところが、それでもS澤君のような隣人が、いれかわり立ちかわり、毎日のようにいろんなことをいってくる。おかげで席の温まる暇もないのである。昨年末も、私がおせち料理の仕込みで忙しいのを知りながら、わざと電話をかけてきて、
「いま忙しいんでしょう、終わったら××で待ってますから。いまメチャメチャもりあがってるんですよ」と、いう。
私が行けないのを承知で、いたずらしているのである。
 で、私の解釈だが、孔子がいっているのは、友は遠方からたまに来るからいいのであって、近くにいてしょっちゅうやって来るのはどうにもかなわん、ということではなかろうか。

「巧言令色鮮し仁」
「鮮し」は、「すくなし」と読む。つまり、見てくれがよくて口の達者な者にろくなやつはいないというのが、伝統的な解釈であろう。しかし私はあえて、「あざやかな仁」と読みたい。
というのも、たとえば同僚の女性に「今日もきれいだね」といえば、もしかするといくぶん扱いがよくなって、頼まなくともコーヒーが出てくるかもしれない。そうすると、おたがい気持ちよく仕事ができる。してみると「巧言令色」には、それ自体どこにも悪いとこなんかない。
 私のような世渡りの下手な人間がいうのもヘンだが、「巧言令色」は悪いことではなく、むしろいいことなのではないか。じじつお世辞も処世術も、見え透いたものでなければ、ということは、うまくやれば人間関係を豊かにする。まさに、「あざやかな仁」である。それを毛嫌いするのは、けちな精神主義にすぎない。

「鬼神を敬してこれに遠ざかる」

「敬遠」の語源である。鬼は、桃太郎にでてくる鬼ではなく、陽の神にたいする陰の神で、つまり神を敬遠せよと孔子はいっている。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるが、それともニュアンスはちがう。というのは、ここから私の解釈になるのだが、問題は人事を尽くしたかどうか、それは個人が決めることではないということなのだ。
 しかるに、天命を勝手に自分で決める輩がまことに多い。卑俗なたとえでいえば、お百度参りを完了したからといって、人事を尽くしたことにはちっともならないのである。同様に、足の裏をみてその人の運命がわかるわけもない。あるいは、自分の精進を神がみとめてくれないと逆恨みしてみても、自分の人生はちっともよくなりはしない。
 人事を尽くすということは、結局のところ、時間的にも能力的にも、エンドレスな努力を傾けることである。鬼神などに頼らず、懸命に生きればいい、孔子はそういっているのである。天命は、天それ自身にまかせておけばよいのだ。
 その通りである。しかしここで私は孔子に抗議したい。人間はそんなに強いものだろうか。何にも頼らず自分の力だけを信じて最大限の努力をしたとしても、いつかは壁にぶつかる。どんな強者であろうとも、人間である以上、限界がある。それは人間そのものの限界である。
私は、そのとき、神に祈ろうと思う。


  小林よしのり氏への手紙

前略ごめん。最新号の「新ゴーマニズム宣言」読みました。第一五四章は、保守主義者への批判からはじまっています。「グローバリズム」という名のアメリカニズムにたいして、彼らはなんら抵抗の姿勢を示すことができないというのでしょう。それで真の保守といえるのか、と。私もその通りだと思います

そしてあなたははビンラディンへの共感を語っている。解かりやすくいえば、あなたは「尊皇攘夷」の志士なのだ。アメリカの機能第一・経済至上主義に象徴される味気ない文化から、日本の伝統を守ろうとしている。だからこそ、イスラムの伝統文化を遵守しようとするビンラディンに共感するのでしょう。のみならず、その目的のためにはテロを是認すると宣言された。私はあなたの純粋なる勇気にはある敬意を感ずる。それは三島由紀夫にたいして私が抱いているものと似ています。

そういえば、あなたの主張は、三島の「道義的革命の論理」と酷似している。あなたもまた、いざとなれば腹を切るくらいの覚悟でこの仕事に臨んでいると私は推測します。たしかにあなたは、あなたが批判する保守主義者どもよりも真摯な態度を有しておられるようだ。

だがしかし、それでも私はあなたがたの論理に反対です。

まず第一に、古き良き日本に復帰することは不可能です。日本人のアイデンティティはもうずたずたになっています。イスラムの女性もベールをいったんとって素顔をさらす自由を享受した以上、もうそれ以前の生活に戻せないように、鎖国でもしないかぎり、あなたや三島がのぞむようなかたちでの「日本への復帰」はけっして実現しはしない。

「イワシの頭も信仰から」といいますが、となりの国の人が平気でむしゃむしゃイワシを食べる光景をリアルタイムで見ることのできる情報化社会の現代では、信仰や文化もグローバリズムよりの容赦のないチェックを不断にうけるのです。心情として、私はあなたがたに共感しますが、それでも歴史に逆行はないということははっきりと申し上げたい。

第二に、あなたは「絶望とニヒリズムが生むテロリズムの中には、同情できるもの、意義を見出せるものもあるのだ」と書き、場合によってはみずからテロに手を染めることもありうるといいます。そしてそれを、「国のために悪を為す気持ち」と説明し、同意をもとめている。でもどうでしょうか。それを人びとに強いるのは、あまりに非人間的にすぎはしないでしょうか。

急いでことわっておきますが、私はなにも「テロは犯罪で悪だという思い込み」に支配されているわけではありません。なぜなら私は、テロリズムやナショナリズムといった政治的な価値に、いかなる意味においても善悪の問題をもちこむことに反対です。むしろ国のために悪を為せというあなたの主張こそ、あなたのいう「思い込み」の裏返しにすぎず、価値の混乱をきたしている。その証拠に、テロリズムを生むのが「絶望とニヒリズム」ならば、「国のため」などという素朴な価値観とは矛盾するのではないですか。

私も手ばなしのグローバリズム/アメリカニズム礼讃に反感を感じていますが、かといってその拒否を称揚する気にはなれません。その反対に、グローバリズム/アメリカニズにわが身を切らせることによってのみ、日本の伝統を蘇生させるわずかな望みがあるのではないでしょうか。そういう仕事こそあなたのめざすべきものです。ぜひ再考をお願いいたします。早々

室内楽のパンセ 

ベルリンフィル・ゾリステンの演奏を聴きに行った。
日本ではあまり人気がないようだが、私は室内楽が好きである。バンド(といっても、ロックだが)をやっていたせいか、カルテットくらいがいちばんしっくりくる。今回はそれにコントラバスとピアノを足した六重奏で、たいへんおもしろく聴かせてもらった。

メインのリャプノフのピアノ六重奏は、作者の名前すら知らず、まして曲も今回はじめて聴いた。第一楽章からロシア風の主題が湧然とわきおこり、耳を傾けながら、私はなんとはなく、小説『罪と罰』で、ラスコリニコフがもの思いにふけりながらネヴァ河のほとりを歩くシーンを想いうかべていた。

ひとつには昼のニュースで、ビンラディンが、
「テロには良いテロと悪いテロがある」といったのを見たからだろう。要するに彼は、自分のやったテロは正義だといっている。無関係の人を何人殺そうと、大きな理想のためにはやむをえぬ犠牲だと、みずからの行動を正当化したのである。

で、ラスコリニコフはそういう人間、やりたいことをやり、それこそが正義だと主張できるビンラディン的人間を崇拝していた。そしてこの世には、そういう少数の英雄と、道徳や世間にびくびくしてすごす大多数の「蚤」的な人間の二種類に分けられると、歩きながら考える。当時はナポレオン的な英雄主義が流行していた。彼はもちろん、蚤ではなく英雄でありたいのである。そのあげく、奇妙な実験をおもいついた。

ラスコリニコフは老婆殺しを計画する。それは賭けだった。つまりその殺人は、自分は英雄であるか蚤であるかという大いなる問いかけだった。そしてついに、誰からも憎まれている金貸しの老婆を殺す。で、その結果、彼は慙愧の涙を流すことになる。道徳や世間を怖れたのではない。彼が涙をそそいだのは神にたいしてであり、いいかえれば罪というものを、東洋的にいえば、「業」というものを実感したのである。

ラスコリニコフは自分のやったことにうろたえ、英雄となることに挫折した。とすれば彼は蚤なのか。だが考えてみると、英雄たらんとしたからこそ、人間存在の底しれぬ罪の深淵というものを発見したのだ。のみならず、そこまでいけば、ナポレオンやビンラディンといえども凡人にすぎない。「良いテロ」などというのは、しょせんゴマカシである。いっぽうアメリカにしてみても、みもふたもない話、彼らの「正義の戦争」だって自己正当化の所産なのではないか。プラトンのいうように、意識せぬ偽善は意識せる偽善よりさらに悪い、と私は思う。

そのテロがよいものか、その戦争が正しいか、その決定権は人間の手にはない。にもかかわらずそれがあると思うのは、思い上がりというものだ。しかしそれでいて、「正義の戦い」に手を染めずにいられないというところに、人間のどうしようもない罪ぶかさがある。  

そういうことを考えずに、単純にテロは悪いという言論が横行している。気楽なものだ。だが、ひとびとの善意をささえているのと同じパッションが、じつは戦争をもひきおこしている。この救いがたいアポリアから眼をそらすかぎり、二十一世紀はたえられぬほど陰鬱な時代となるだろう。

そんなことを考えているうちに、ロシア的旋律はゆたかに展開し、シンフォニックな響きのうちに終結した。

米百俵の経済を語る

もし読者諸氏が私のことを、自分の経済オンチをよそに今回の補正予算についてコメントするようなことはないと思っておられるなら、あなたは私を買いかぶっている。
もっとも、こっそり日経新聞の記事を切り抜いている私を見とがめた親父殿が、「まさか、おまえ、経済問題について書くつもりじゃなかろうな、損益計算書もろくに読めん分際で」といったときは、急いで首を横にふったものだ。そうでないと、何をいわれるか知れたものではない。私が受験の時に経済学部を一つもうけずにごまかして以来、われわれの間で「経済問題」はかなり微妙な問題になっているのである。だが、数学のぜんぜんできない男が経済学部なんてどだい無理な話ではないだろうか。
 とはいえ、このたび私は勇気をふるって、無謀にも経済について語ろうというのである。なぜならば、どっちにしてもたいしたことのできそうにないテロ対策法案より、いま大事なのは景気対策で、実のところ、ブッシュ大統領をはじめ世界中がそっちのほうを期待している。日本の経済再建は全世界的課題であり、国会においても、狂牛病よりアフガンより、多くの時間をさいて論じられるべきテーマなのである。

みなさん憶えておられないとは思うが、私は本欄に森喜朗続投論を書いたことがある。私としては逆説的構造改革論のつもりだったが、当時の亀井政調会長の財政政策にはちょっと懐疑的だった。大胆な財政出動で景気を下支えするにしても、ざるで水を汲む感があったからだ。

企業は八十年代に膨大な借金をつくり、九十年代に資産価格の暴落に直面した。したがって、資金が前向きな再投資にむかわずに、借金返済にばかり集中した。個人も同様に、消費より返済と預金に偏重している。それがいまの不況を泥沼化させている元凶である。とすれば財政出動したところで、金は借金返済に吸収されるだけということにならないか。

そこへ登場したのが小泉政権である。構造改革なくして財政再建なし。正直な話、私も期待した。でも田中真紀子を外相にすえたと聞いて、がっくり。すぐに田中外相批判を書いた。不幸にして私の予言は的中し、いまでは田中真紀子を首相にと考えているのは、本人と中国人くらいだろう。
 さらに不幸なことに、小泉首相はあれほどの支持をうけながら、構造改革も特殊法人の見直しも、不良債権の処理も遅々としてすすまず、CDや写真集を出したりなんかしている。どういうつもりなんだろう。このまま景気が落ちこめば、不良債権問題はさらにとんでもなく悪化するという悪循環におちいることは明らかだ。改革に痛みはつきものだというが、将来の展望がなければたんに痛いだけだ。そんな無意味な苦行は願い下げである。

最悪の失政とは、政策の失敗ではなく、なにもしないことだ。経済にくらい私にはなんの処方箋もしめすことはできないが、構造改革においてたいした成果が上げられないのなら、すぐにも公共投資や減税をふくむ大胆な緊急措置に踏み切るべきである。三十兆円の枠にこだわるのは本末転倒だ。将来のために米百俵とっておいて、そのために飢え死にするというのも、知恵のない話である。

第三の旗をたてよ

テロ事件について沈黙し、絵画や小説の話ばかり書いているのはおまえらしくないと、ある読者にお叱りをうけた。そうはいっても、世界中に意見があふれ、私自身あきあきしている。いまさらつけくわえるテーマもあるまいと思っていたが、新聞など読んでいると、どうやらそうでもなさそうなので、ひとつ書いてみることにする。

まずだいいちに、ビンラディンのテロは、西洋的な世界観への挑戦である、ということをしっかりと把握しておく必要がある。これは歴史的な事件である。すなわち彼は、「グローバリズム」という名の近代化/西洋化に抵抗し、同時多発テロを遂行した。それにたいし、アメリカを盟主とする西洋的・キリスト教的価値観がそれを排除しようとしている、それが現在の状況である。よくいわれている貧困や南北格差、パレスティナの問題は、個々の表面的な現象であって、これはあくまで二つの価値観のぶつかりあいなのである。

だから、日本の一部の知識人が主張するように、平和憲法をタテにとって、日本が和平の調停にのりだしたらいいなんていうのは、世間知らずの妄言にすぎない。そんなものに、ブッシュやビンラディンが耳をかすはずはない。なぜなら、彼らは平和や人命よりも、みずからの「理想」を上位においているからだ。

それを無知蒙昧で野蛮な思想だとかたづけるのはたやすい。しかしながら、みずからの命をすてても自分たちの正しさを証明しようとするはげしい理想主義を抱懐している彼らからみれば、私たちのあいまいな平和主義は、臆病者の言い訳だと唾棄されるだろう。公平に見て、アメリカニズムでもイスラムでもない第三の旗が日本にあるとは私には思えないのである。
 ところで、W田先生がおもしろい話をしてくださった。あるパキスタンの政治家がインタビューに答えていわく、無差別テロは確かに悪いが、それに暴力をもって報復するのはさらに愚かであり、なんの解決にもならない、と。

「それではどうして、貴国は水爆をもっているのですか?」

「インドがもっているからです」
 これは実話である。笑ってはいけない、人間とはそういう手前勝手なものなのである。日本だっておなじだ。「話せばわかる」ならば、自衛の軍備も必要ない。いまわきおこっている反戦論も、平和をねがうというより、戦争にまきこまれたくはないというのが本音だろう。

暴力にたいする暴力による報復は、無限の暴力の連鎖を生むという。そのとおりかもしれぬ。しかし、いまだ暴力が野放しになっている国際社会において、侵略や無差別テロを説諭だけですますわけにはいかない。と同時に、アメリカのような超大国が大きな発言権と行動の権利を有する、というのもまた国際社会の現実だ。否応なく、日本は「戦争」へとまきこまれる宿命にある。したがって、もし日本にできることがあるとすれば、それがたんなる暴力による報復ではなく、平和回復へのみちすじをつける戦いへと転化させることである。それのみが暴力を文明のがわに回収する唯一の道だ。

それゆえ軽率な自衛隊派遣はひかえるべきだろう。既成事実をつみあげて憲法を骨抜きにするようなやりかたは、野蛮そのものである。そんなことで未来の国際社会のヴィジョンを示せるわけがない。もういいかげんに、だらしのない拡大解釈に終止符をうつべきときではないか。そうでないと、あいまいで偽善的な平和主義をおしつけられて戦場に送りこまれる自衛隊員が、あまりにかわいそうだ。

小説のエロース

歩いてゆける範囲から書店がなくなってしまったので、さいきん読書量が減った。私の好みの本がたとえ出ていても、気づかずに見過ごしてしまうのだ。じつに残念である。だからその対策として、アマゾンやブックワンのメールマガジンに登録することにした。アマゾンのは特に、自分の好きなジャンルをえらべるのがいい。おかげで恩師・松原正先生の漱石論が出ているのを知り、さっそくオンラインで注文した。

本の到着を待っている間に、洲村長さんから、短編集『風が立ち』の恵贈をうけた。私はふだん、小説はあまり読まないのだが、お世辞ぬきで面白くて、一気に読んでしまった。市内の書店で販売されているので、皆さんもぜひ買って読んでみてください。私個人としては、まず「手紙」という短編から読みはじめることをオススメする。これ以上批評すると叱られるかもしれないから、あとは沈黙。

洲村さんの小説でいきおいづいたせいか、もっと現代小説を読みたくなった。それでアマゾン推奨の川上弘美著『センセイの鞄』と、朝日新聞の書評で見た花村萬月の『♂♀』を購入した。両方とも佳作である。もっとも、後者はあまりにエロチックで、私の趣味は別としても、ここで批評するのはちょっと気がひける。

その点、『センセイの鞄』は妙に私の気分にしっくりきた。まず、文章がいい。基本的には女性の独白体なのだが、ひそかに話者が転移したり、その他いろいろな技法つかいながら、簡潔で、これみよがしなところがない。つまり、芸があるのだ。

三十七歳の独身ОLのツキコが、居酒屋でかつての恩師と再会するところから話ははじまる。しだいにツキコが想いをつのらせてゆく、その恋愛心理の的確な描写も水ぎわだったものだが、それよりも私が感心したのは、その背景にあるツキコの「気分」の描写だ。

ツキコは、大叔母に、恋は育てるから育つんだよ、と教えられる。要するに、相手なんて誰でもいい、出会いなんて「行きががり」のものにすぎないというわけだ。考えてみると私だって、大学に入ったのも、就職したのも、結婚したのも、「行きがかり」の結果だといえなくもない。でもそういう現実を受けいれて「育て」ていくのが、ジョーシキ的な人生というものだろう。

しかしツキコは、べつの人生をのぞんでいる。多くの男にもてなくともよい、たった一人のかけがえのない男と出会いたい。育てなくとも、ずんずん育つ恋に身をゆだねたい、と。前回書いたゴッホもそうだが、彼らはみずからの生に手ごたえを欲している。たとえ瞬間でもいいから、孤独の壁を突き抜け、日輪がのぼるような運命の必然に生きたいというのである。作者はそういう主人公の「気分」をたくみに描いている。
「外に出た。通りに出て、生きているのは自分だけではないことを、生きて心細い思いをしているのは自分だけではないことを、確かめたくなった」

こうした生の悲劇的感情は、しかしそれ以上、深められることなく、全編をおおう「気分」としてのみある。だからこそ、このほのぼの淡々とした小説は成功している。べつのみかたをすれば、それがこの小説を小さくしているともいえるだろう。とはいえ、ひさびさに私は現代小説にエロースを感じた。

タンギー爺さんに会った

                                 
 芸術においてもっとも大切なのは輪郭線の強さだと、ウィリアム・ブレイクはいっている。いかにもブレイクらしい言葉で、私もすこぶる、同感である。ただし私は、無骨で逞しい直線の強さより、優美な曲線の強さが好みである。たとえば、ナショナルギャラリーにあるレオナルドのカルトン。あれを眼にしたときの感動は、いまもスナップショットのように、あざやかに私の脳裏に刻まれている。

その点、ゴッホの線は素人くさい粗野なものである。とうてい優美とはいいがたい。本来、私の趣味ではないのだ。しかしそれでいて、ゴッホの画は私の心を揺さぶる。いつも引きこまれてしまうのである。もうずいぶん前の話だが、ゴッホの大規模な回顧展の会場で、彼の画の一枚一枚が、嵐のように私を襲ってきた。とにかくどの画も凄まじいほどのフォースをはなっていた。しかもそれは、たいてい、どこか陰鬱で胸をしめつける調子のものだった。

帰ってから、私はゴッホの書簡集を読んだ。そこには彼の無残な人生が廃墟のようにのこされていた。そこにあるのはひとりの殉教者の記録である。彼の異様な情熱を社会は拒絶した。ゴッホは、家庭からも学校からも教会からも職場からも、そして画壇からも締め出しをくわされた。

恋愛においても同様である。彼は愛する女性からいつも、「いいえ、だめです」という言葉しか引き出すことはできなかった。会うことすら許されぬ恋もあった。ゴッホはランプの焔に手をかざし、懇願した。
「こうして我慢できる間だけでもいいのです。どうか彼女に会わせてください」
劇的な場面である。とはいえ、彼自身にはひとかけらの芝居気もなかった。ゴッホは、あたかも息をするように、純粋な情熱をそのまま行動できた人だった。しかし世間はこの美しい魂を「異常」だとみなし、迫害したのである。
「あたえようとばかりして、もらおうとは思わなかった。なんと愚かな恋愛であったろう」

それでもゴッホは、美しく正しくあれと、ひとすじの光を追いもとめながら、つまづきつまづき、歩んでゆく。その足跡はあまりにもいたいたしい。

そしてこの恋から十年後、ゴッホは三十七歳でピストル自殺をとげた。
「タンギー爺さん」は、明るい光をもとめてアルルにうつる直前に描かれた。モデルのタンギーについてゴッホは、「その労苦と忍耐は殉教者に似たところがある」と書簡の中で語っている。タンギーはゴッホのよき理解者であり、そして彼はタンギーの人柄を愛していた。背景にある浮世絵も、理想の国・日本を象徴している。それゆえこの画は、彼の作品にしてはめずらしく、明るい希望にみちている。ゆたかな生命の輝きがあふれている。見る者を仕合せな気分にする稀有な力をもった画だ。

 いま萩の浦上記念館に「タンギー爺さん」が来ている。再会した私は、若いころとはちがうふかい感慨を得た。みなさんもぜひ、この機会に、ご覧になってください。

「偽善」のススメ

前回、首相の靖国参拝を支持すると書いたら、毎度のことだが、友人から未知の読者まで、いろんな人から反論された。それも左右両方からである。

護憲を掲げる進歩派の人々の批判は予想していた。政教分離の原則を侵し、戦争賛美に通ずるというおきまりの批判だ。しかし保守派の人たちの批判は意外だった。簡単にいえば、私や小泉首相は手ぬるいと彼らはいうのだ。

ある人は、慰霊祭での首相談話の中でのべられた「不戦の誓い」は偽善であると私に語った。「周辺事態」のレベルによっては、外交の最終手段として戦争も考慮にいれるのが国際常識であり、そのために自衛隊は存在する。それを知りながら知らぬふりをする小泉やおまえは偽善者だ、というのである。むろん、彼は改憲派だ。いわく、
「『諸国民の公正と信義に信頼』できるなら、警察なんかいらん」

しかし、そんなこといいだしたら、「国連憲章」だって「人権宣言」だって、一度読んでみるといい、みんな偽善的だ。

だいいち、いったいどこの国の首相が、よりによって戦没者慰霊の日に、「場合によっては、日本はまた戦争します」なんて宣言するだろうか。彼の主張は一見筋が通っているようではあるが、私にいわせれば、「子供の正義」にすぎぬ。

同じことが護憲派の人たちにもいえる。彼らは私が子供のときは「非武装中立」を主張し、自衛隊は違憲だといっていた。それが「違憲合法」となり、「合憲」となった。つまり「非武装中立」は「武装中立」と変わったのである。彼らは解釈という魔法をつかって、日本国憲法をパンツのゴムのように伸び縮みさせる。既成事実ができ、周囲の情勢が変化すれば、おそらくまた解釈は変わることだろう。「絶対変えさせません」なんて胸を張っているが、これを真の護憲といえるだろうか。

同じ条項が「武装」と「非武装」という正反対の概念を含意するとすれば、その文言は空無化される。その意味で、憲法の権威を失墜させた張本人はタカ派ではなく、むしろ護憲派の方だと私は考えている。

いちばん困るのは、そういう自分の偽善に無自覚な点である。だから「子供の正義」だと私はいうのだ。それはみずから責任を負わぬ者の思考である。

もともと政治なんて偽善的なものだ。ただ肝腎なことは、その偽善を見抜き、それにたえる強靭な精神を持ちうるかどうかということにある。偽善はいいが、それに自覚的でなくてはならない。そして要は、結果に責任をもてばいいのである。

みもふたもない話、国家も社会も家庭も、そして人格すらも、じつをいえば虚構ではないか。 それらは自然物ではなく、人間の精神が構築した実在である。いうなれば、ことごとく嘘である。しかしながらその嘘を成り立たせる努力にこそ、人生の意義はあるのではないだろうか。

八月十五日

                          

私の祖父は太平洋戦争で戦死した。

祖父は海軍で、巡洋艦にのっていた。機関兵曹だった。ところが祖父の艦は太平洋上で米軍の潜水艦に撃沈された。祖父たちは海になげだされ、波間に浮いているところを、味方の輸送船に救われた。そのままフィリピンのマニラ基地に運ばれ、一時待機していた。
 そのとき折悪しく、マッカーサーのフィリピン奪回作戦がはじまった。米軍は上陸作戦を敢行し、はげしい戦闘が展開された。
 祖父たちは武器をもたず丸腰だつた。戦闘に加わることも移動することもできず、身をかくすほかなかった。優勢な米軍はほどなくマニラを制圧した。そして夕刻には掃討戦に入った。
 米兵が機関銃をかまえて、敗残兵をさがしていた。祖父たちは河口の橋の下で、首まで水につかり、息を殺していた。少しでも身動きすれば、夜光虫が波紋を光らせて、自分の位置を知られてしまう。そして彼らには降伏という選択肢は存在しなかった。重苦しく長い時間が経過した。

「そのとき、ダダダと機銃掃射の音がした。それから海老さんのすがたが見えなくなったんです」

 祖父の戦友を訪ねた祖母と父は、祖父の最期の様子を、そのように聞かされたそうである。
 当時、祖父は三十四歳だった。軍のなかではベテランであろうが、いまの私からみると、弱冠三十四歳である。勤めを辞し、妻と幼い子二人を故国にのこして、南洋で戦っていた。首まで水につかり、身動きできず、武器もない。活路は閉ざされていた。
 そのとき祖父はなにを思っていただろう。

 小泉首相があえて靖国参拝を公約した気持ちは、私にはよく解かる。現在、世界第二の大国の国民として豊かな生活を送ることができるのは、当時の日本人の必死の営為があってこそだ。戦後日本の繁栄は、私たちの祖父母の犠牲の上にある。「もし太平洋戦争を回避していれば」という議論もあるが、歴史に「もし」をもちこむのが無意味だというのは、歴史学のキホンだ。少なくとも戦争をへて現在があるというのが唯一の現実ではないか。

 それならば、いたずらに忌避するのではなく、その現実に沈潜すべきである。父祖のなした罪をよそごとのように語るのは許されぬ。と同時に、末裔である私たちは、父祖への感謝の念を失ってはならぬ。小泉首相はそう考えたのだ。戦争賛美とか、そういうことではけっしてない。ことに戦争を知らぬ世代が多数を占める今日、それは必要な行為なのである。

 私は祖父の名において、小泉首相を支持する。この騒動が空騒ぎに終わらず、歴史の意味を考える機縁となればさいわいである。


教科書問題の本質

 まず最初に指摘したいことは、この問題を外交といったん切り離して考えるべきであるということだ。とくに中国は教科書問題を外交カードの一枚として利用している面が強く、その点韓国はもっと純粋だが、そういう面がないとはやはりいいきれない。

 それからもうひとつ、首相の靖国参拝とセットにした論調がめだつが、これもまた別問題であり、いっしょくたにしてはならない。

 というのは、教科書の問題の根底にあるのは、当たり前の話だが、あくまで「教育」である。ところが現在の教科書をめぐる論争においては、教育の本質とは何かという問いはなおざりにされたまま、神話の記述が多いとか、アジアの諸国民へのお詫びなど、そういった枝葉の問題に終始している。

 この点で、西尾幹二らの「つくる会」と、さらにまた、その批判者のいずれの立場の人にも、私は少なからぬ疑問を感ずる。極端にいえば、教科書なんぞどうでもいいと私は考えている。なぜなら、教育とは人から人へとなされるものである。本欄のスペースではくわしい説明はできないが、たとえば吉田松陰はわずか一年の教育期間で、近代日本の扉をひらいた。維新だけでなく、義務教育も四民平等も廃藩置県もすべて、松陰の思想から必然的に招来され、今日の日本の基礎をかたちづくっている。

 ところが松陰は『孟子』や『資治通鑑』をテクストにしていたし、じっさい塾生はそれを習っていたようで、その点では明倫校と大差ない。が、彼らがうけとったメッセージはそういうテクストをはるかに超えたものだった。それはおおざっぱにいって、この世界にたいする根本的態度とでもいうべきものである。しかしそれは教えられるものではない。塾生は松陰の真摯な生き方からそれを学んだのである。だからこそ、たった一年の教育が後世にものすごい影響をあたえることができた。

 いちばん大切なことは教えられない。これが教育の本質である。知識の伝達は可能であるが、いい先生との出会いがなければ、それは一つの知識として脳に格納されるだけのことだ。したがって、西尾幹二の教科書が人間をつくるがごとき発言は、とても文学者のものとは思えない。人間の精神はそんな単純なものではないだろう。

 朝日新聞やその他の文化人にしても、そんなに「つくる会」の教科書に反対なら、自分の意にそう教科書をつくればいいのだ。反対なら代案を出す、それが民主主義というものだろう。批判ばかりして責任をとらぬほど、「反教育的」なこともあるまい。

 教科書の検定制度も見直しが必要である。むろん最低限のチェックは必要だ。しかし検定の過程をもっとオープンにして、理想をいえば、それぞれの先生が自由にテキストを選択できたらいいと思う。政府が中途半端な検定などするから、外国からいちゃもんをつけられるのである。

 現在の大人たちの生き方がダメなら、次の世代にもとうてい多くは期待できない。教育とはそういうものではないか。教科書問題に神経を尖らせるくらいなら、松陰先生には遠くおよばずとも、がんばろうではないか、ご同輩諸君!

ここを過ぎて悲しみのまち

                                   
『ピカレスク』という本を読んだ。太宰治の評伝で、著者はいま人気のノンフィクション作家、猪瀬直樹だ。朝日新聞の書評に、星の数ほど太宰論はあるが、いかなる文芸批評家も書きえなかった傑作だとあったので、読んでみる気になった。

 そういえば、いま思い出したのだが、私と交代で本欄水曜日を担当している久保田克秀さんに、

「あなたは、好きな作家なんていないんだろうね」

と、いわれたことがある。その時、確か、太宰とか安吾の名前をあげたと思うが、それより、なぜ私に愛読する作家がいないと思われるのか、それをうかがおうと思ったら、ちょうど邪魔が入って聞きそこなってしまった。

 まあしかし、太宰治は好きな作家の一人である。影響もうけたと思う。ただ、私が好きなのは『お伽草紙』とか『ろまん灯篭』とか、『女の決闘』などで、『人間失格』みたいな、いわゆる太宰的な作品に共感はない。それどころか、道徳と美との混同があるという意味で、かなり批判的でさえある。

『ピカレスク』にそういう視点はない。かいつまんでいえば、この本に書いてあるのは、太宰が作家的成功をなにより欲していた俗人で、そこに障害がたちあらわるたびに狂言自殺をしたという、著者の推定である。そしてもうひとつ、井伏鱒二は太宰の師であることによって、大家の一人とされてきたが、じっさいは剽窃をこととする二流作家にすぎぬという批判。要するにこれは、ある種の暴露本なのである。

 猪瀬氏はきっとご立派な方でそんなことはないんだろうが、誰しも浮世の苦労はあるし、一つや二つは人にいえない醜態を演じたこともあるだろう。そんなこと、なにも驚くにはあたらない。私などは逆に、あれほどの異才の持ち主である太宰にして、売り出すためにこれほど無茶をしなくてはいけないのかと、ため息をついた。

 作者の実生活を索引にして文学作品を読むのは邪道である。私たちは、さしだされた花束そのものを愛でればいいのであって、どんな肥料をほどこしたかなんて問題は、二次的なものにすぎぬ。出版されたテクストは、作家のものでありながら、それでいて、すでに作家のものではないのだ。だから、こんなくだらない視点で太宰を語っても、太宰の作品の美を語ったことには少しもならない。

 私の知人で詩人のFさんも、じつは酒乱である。ふだんは本当にいい人なのだが、飲むと、からむ。暴れる。手のつけようがない。先日会ったら、友人に敬遠されて淋しいとこぼしていた。同情するが、正直な話、私も彼と飲むのはごめんこうむりたい。そういう人物だが、彼の詩は、詩壇では、深い精神性があると高く評価されているのである。私は楽屋裏を知っているので、なかなかそうは読めない。本人を知らないほうがよかったと、いつもそう思う。

 リラダンの有名な言葉に、「生活? 生活なら召使にまかせておけ」とある。これは彼らしい極端なディスクールだが、つまり、生活の問題は生活の上で解決すればよい、ということである。文学の問題はおのずからまたべつのものだ。その意味で、この『ビカレスク』は、郷ひろみの元妻の暴露本同様、なんら読者を裨益するところのない駄本である。

田中真紀子首相待望論を駁す

  F田先生に田中真紀子について書くようにうながされた。国民的人気を誇る人物を敵にまわしたくはないのだが、先生は数少ない私の愛読者であるし、個人的にもお世話になっているので、今日はひとつリクエストにお答えしようと思う。
「あれはいかんよ」
とF田先生はおっしゃった。ああいう感情的な言動では外務省の改革なんてできっこないし、国益を損なうというのだ。
 私も同感である。まえにも書いたが、私は学生時代、父・角栄氏のブレインだった人のところに厄介になっていたことがあって、角栄氏の人となりについていろいろと情報を得た。だから真紀子さんが父親そっくりだという俗論には、まったく賛成できない。
 田中角栄は、けっして人の悪口をいわなかった。学歴も門地もない彼が頂点をめざすためにとった戦略は、味方をふやすだけでなく、それ以上に、敵を減らすことだった。このことは彼が人間通であり、しかも不抜の意志力をそなえていたことを示している。それゆえ官僚を使いこなす点でも群を抜いていた。
 大蔵大臣に抜擢された当初、官僚はこの小学卒の田舎代議士をばかにしていた。しかし彼はけっして頭ごなしに命令などしなかった。何をやったかといえば、大臣としての初めての国会質疑を原稿なしでこなしてみせた。官僚のもってきた資料は細かな数字までぜんぶ頭に入っていた。角さんの余裕綽々の答弁を見て、官僚たちは舌をまいた。しかも政策はただちに実行にうつされた。その上、じつに面倒見がよい。彼らは角栄氏を「コンピューター付ブルトーザー」と呼んだ。それは畏敬の念がこもった愛称だった。以降、すすんで彼らは手足となって働いた。
 しかるに娘・真紀子外相には、そういう人間的深みはみじんも感じられない。しかも政策通ですらない。二転三転する国会答弁を見ていると、彼女が不勉強であることは明白である。あれでは官僚に頼らざるをえない。したがって抜本的な組織改革なんて夢のまた夢である、というのが私の三段論法だ。
 だいいち彼女は外交の要諦がわかっていない。たとえば、中国が日本の歴史教科書を問題にするのは国家戦略の一環である。同様に、米国が中国の「人権問題」を非難するのもまた、国家戦略なのだ。これはパワーゲームであり、平和時においてもあらゆる局面で、たがいに主導権をあらそって、激しいせめぎ合いが行われている。その中で、結果として日本の国益にかなうよう判断することこそ、官僚ではなく、ほかならぬ政治家の仕事なのである。いうは易く行うは難い課題だ。
 これを「主婦の眼線」で処理するとすれば、日本の外交政策は大きく誤ることになろう。なにも私は父・角栄のやったことをそっくりやれとはいわない。状況は変化しているのだから。しかしながら人間についての深い洞察力と信念なくしては、外交はおろか省内の改革もおぼつくまい。まして首相などとはとんでもない。周恩来が敬意を表し、ニクソンが敵意をいだいた父君の偉大さの本質を、いまいちど見直してもらいたいものである。

なぜ人を殺してはいけないか   

   ニュース番組で、「なぜ人を殺してはいけないか」という特集をやっていた。青少年の殺人事件の急激な増加を背景に、かりに彼らからそう問いかけられたら、どのように答えるべきなのかと、大人たちは悩んでいるというのだ。
 哲学者や心理学者は、いちように「人を殺してはならないという原理的な根拠はない」と答えていた。だからといって殺してもいいと主張しているわけではないが、いずれにしても現代の学問は、人殺しを阻止する積極的な契機はなんら見出すことができないわけである。 もうひとつ多かったのは、自分自身殺されたくないのだから、他人を殺すことも控えなければならないというもので、これまたきわめてネガティブな回答だ。それなら殺されてもいいと覚悟をきめれば、何人殺してもいいことになる。
 とにかく、こういう大問題を十分たらずの番組枠で扱い、それに学者や文化人がたいして考えもせずに答えるという、そういう手軽さにまず反感をおぼえる。この問いは、裏をかえせば、人は何のために生きているか、を問うことにほかならない。死を問うことは生について考えることだ。このうえない難問である。
 私なら、気がついたら生きていた、と答えるほかはない。腹がへったからメシを食い、その結果生きていると。家族のためとか、何かをなしとげるためとか、その他の「人生の目的」は、あくまで暫定的なものにすぎない。そうすると、くだんの学者たちといっしょみたいだが、そうではない。私には答えられないといっているのである。この世には問うても答えられぬ問題がある。
 ゲーム感覚で殺人を犯したり、成人式でバカ騒ぎしたり、親に暴力をふるったり、子供を虐待したり、総理大臣を馬鹿者扱いしたり、円周率が三になったりするのは、すべて価値の権威というものをみとめないという態度に由来する。これをニヒリズムという。
 自己の深層をさぐるほど、私は底しれぬ虚無を感じる。善悪の観念は、社会秩序維持のために人間のつくったものであり、自然の摂理とは何の関係もない。弱肉強食が真の原則であり、道徳などというものはこの世のまやかしごとにすぎず、誰にも知られなければ何をしてもいいのだ。しかしその正しさを承認してなお、私は内心の畏怖を消し去ることができない。私の思惟を超越した大いなる影に私の本能は感応し、戦慄する。
 すべての道徳律や価値観をしりぞけるということは、とりもなおさず自己本位のエゴイズムに徹底するということだ。いいかえると、あらゆる事象を自分に有利か不利かという尺度ではかることである。誤解を怖れずにいえば、むしろみずからすすんでそうすべきなのだ。私はあらゆる価値を拒否しようと思う。いや、じっさいにそうしてきたつもりだ。
 しかし、結果としてどうしてもそこに割り切れぬ剰余がのこるのである。
 たとえばソクラテスは、 「ただ生きるのではない、よく生きることが大事なのだ」
といった。私にはその「よく」ということの内実はつかめないが、それにもかかわらずソクラテスの言葉の正しさにあらがうことはできない。同様に、たとえ合理的に説明できないとしても、殺人はまちがいなく悪なのだ。
 なぜ人を殺してはいけないのか、そう問われたら、私は答えたい。
「 われわれの人生それ自体が、その問いにたいする答えである」と。

脱ゴーマニズム宣言
私が小学校五年生のとき、I先生という、たぶん五十歳くらいの女性教師が担任だった。すらっとした痩せ型で眼鏡をかけていて、流行の「パンタロン・スーツ」できめていた。いまにして思えば、バリバリの日教組女闘士といったところだったかもしれない。
 いつもしゃきっと背筋の伸びたかんじの人で、理非曲直にきびしく、悪ガキどもはいつもびびっていた。私も例外ではなく、何度かびんたを張られたのをおぼえている。しかし私たちは先生を恐れこそすれ、けっして嫌ってはいなかった。むしろ「最強の教師」として崇拝していた。誰のいうこともきかない悪ガキが、である。
 あるとき先生はホームルームの時間、私たちに「自衛隊は合憲か」というテーマで自由討論をさせた。小学生にはおよそ不似合いなテーマであると思われるかもしれないが、活発な討議がくりひろげられ、内気な私なども何か発言したように思える。
 その間、先生は終始笑顔で私たちの議論を見ていた。発言する生徒の手助けをしたり、紛糾した討議を交通整理するくらいで、先生の意図するところに誘導するということは一切なかった。
そして最後におっしゃった。
「この教室でもいろんな意見に分かれて答えはでませんでした。このように世の中には結論のでない問題がたくさんあります。それでもこのように、いっしょうけんめい話し合うことが大切です」
 私は昨今の教科書論争をみていて、I先生のことを思い出した。それで、西尾幹二や小林よしのりの主張に同意できぬ部分に、ようやくおもいあたった。  たしかに彼らの戦後教育批判には納得できるし、「自虐史観」には私も反対だ。だが、それなら彼らの主張も「自尊史観」なのではないか。とりわけ小林よしのりの漫画は、あまりにも明解に結論がですぎている。『台湾論』でも、独立派は善玉、復帰派は悪玉というふうに。私はそんなオメデタイ史観などもてない。
 そしてなにより、自分の著作や教科書が子供を善導すると信じていることに反感を感じる。結局それは左翼の思考をひっくりかえしただけで、その本質はちっともかわらない。どちらにも、無知な民衆に人格教育をしてやろうという底意がある。それはおもいあがりというものだ。だから私は人格教育なんて、これっぽっちも信じない。学校では、知識と思考の技術だけを教えてもらえば、それでいい。
 なぜなら子供は大人が思うほどバカではない。神話が事実だと思わないのと同様に、自虐史観にだってだまされはしない。笑顔でうまく誘導しようという大人のウソなんかすぐに見破る。ウソのカラクリまでわからぬにしても、それがウソであることは敏感に感じとるものだ。
 私たちがI先生を尊敬していたのは、そういう偽善がなかったからだ。はげしくしかられたり、ときには体罰をうけても、そこにはいつも先生の真実があつた。体罰を肯定するわけではないが、偽善的な徳育よりも、本物の怒りのほうが、よほど教育的なのだ。その証拠に、私たちは先生の姿勢から、善悪の峻厳さ、ものごとに真剣に取り組むことの大切さなどをうけとった。
「ゴーマンぶちかましてやろうじゃねえか」
 いちばん大切なことは、けっして教えられぬものだ。

森続投を国民に訴う

 いわく。このたび私は、森さんを続投させる会宇部支部長に就任した。力不足であることは承知だが、同窓ということで、森政権誕生以来さんざんからかわれてきたのだ。私がなってどうして悪いことがあろうか。
 マスコミにあおられて支持率は過去最悪だが、いったい誰に交代すればいいというのだろう。橋本龍太郎?河野洋平?それとも野中? 小泉、亀井は今回は遠慮するだろう。野中も出馬するほど恥しらずではあるまい。まさか扇千景、野田聖子、田中真紀子? とてもまとまらんだろう。そうすると橋龍いちばん手か。
 私は橋龍がキライだ。なにも三田だからというのではない。いや、正直いうとそれもあるかもしれないが、じつは私は洋平嫌いでもある。こちらはれっきとした先輩である。まあそれはおいといて、橋龍はれいの「加藤の乱」のおり、加藤さんを「焼けたフライパンの上の猫」と言い捨てた。なんという冷酷な表現だろう。だいいち、それをいうなら、「焼けたトタン屋根の上の猫」というべきだ。
 今回も首相への意欲をきかれて、 「君、つかれるんだよねえ、そういう質問」  と、顔の汗をふきふき答えていた。きざな野郎だ。
 その点、森さんは脳天気でイヤミがない。首相就任前は、野中さんのようなタイプの政治屋だと思っていたが、早慶戦で、赤い紙の角帽をかぶり、肩を組んで楽しげに「紺碧の空」を歌うすがたを見て、がらりと評価がかわった。亀井静香は、
「森首相は日本のオヤジだ。いまはナポレオンのようなリーダーを必要とはしていない」  と語っていたが、私もそのとおりだと思う。
 たとえ強いリーダーシップが必要だとしても、それならなおのこと、大舅小姑がいっぱいの自民党を指揮してシビアな構造改革をすすめるなんていう大事業を、誰ができるだろう。橋本龍太郎だって派閥のオーナーではなく、雇われマダムにすぎない。彼自身、いつ「焼けたフライパンの上の猫」に化けるかわからないのである。
 どうせ強いリーダーシップを期待できないのならば、中途半端な切れ者よりも、素直で隙だらけの森さんがいい。神の国発言からこっち、森首相は自民党の暗部を次々と明るみにだした。彼は歩く「情報公開」であり、彼の言動は戦後体制の「脱構築」そのものである。彼が首相をつづけるかぎり、株は落ちつづけ、ますます日本経済はだめになり、社会は腐敗し、戦後体制はとことん崩壊する。
 それでいいのだ。いよいよダメとなれば、構造改革、政治改革をせざるをえなくなる。余裕があるうちは変革なんてできっこない。私が教えをうけた、松原正早大名誉教授はつねづねいわれていた。
「日本人は貧しい時にだけ、美しい」
 日本人よ貧しくなれ。さすれば道もひらけよう。
 と、Q端先輩は私に語った。

新編いろは歌留多
い 犬も歩けば人も歩く
 町内に、夜間、犬を放し飼いにしている人がいるらしく、帰宅の遅い私はいつも数匹の犬に出合う。首輪があるので飼い犬にまちがいない。けしからん隣人もいるものだ。ところが最近は、スニーカーをはいて夜歩きする主婦の一団にでくわすことがある。気の弱い私は、実をいえば、犬以上にぎょっとする。まさか、夜間、放し飼いにされているわけでもあるまいが。

ろ 論より数
 日本の政党は理念ではなく、意地ずくで分かれている。なにも政治家だけではない。日本人は信念ではなく、横の人がなにをするか、ということはつまり、多数の意見にもとづいて決断する。それが悪いというのではない。ただ、こういう心性があらゆる局面にはたらいていることを、すなおに認める必要はあろう。

は 花も団子も
「ブリダンのロバ」という理論がある。腹のへったロバの前に、等量の干草と水をおくと、ロバは選択に困って餓死してしまうというものだ。そんなバカなと笑ってはいけない。地球にもどってきた宇宙飛行士がスペースシャトルのドアをあけた。その時、絶世の美女と大とろが並んでいたら、どんなカタブツでも迷うだろう。しかし考えてみると、情欲と食欲は、基本的な動物的衝動である。いや真面目な話、同じものの二つの面だ。優劣などあるはずもない。世に恋愛ドラマとグルメ番組のはやるゆえんである 。

に 二度あることは三度ある
 これが社会科学の基礎原理である。経済学でもなんでも、この原理の上に成立している。だが本当は、現実は一回性のもので、歴史に繰り返しはない。戦争も恐慌も、同じようにはやって来ない。だから学者の予測はかならずはずれる。

ほ 仏つくって魂いれず
 成人式のニュースを見ながら、私は「神は死んだ」とつぶやいた。伝統や権威に敬意をはらわない以上、通過儀礼としての内実は失われる。彼らの見苦しいバカ騒ぎは、戦後教育、いや戦後的価値観の当然の帰結である。これからますますひどくなろう。どんなに教育制度を新設してみてもムダである。魂不在なのだから。それならばいっそのこと、成人式も葬式もオギノ式も、ぜんぶやめたらどうかと提案したい。

へ へたの横好き
 私の文章のこと。

と とらぬ狸の皮算用
 希望の別名。歴史の原動力。これがなくちゃ、やってられない。女性にもてず、借金苦にあえぎながらも私が生きていられるのは、この甘美なる麻薬のおかげだ。

ち 沈黙は禁
  沈黙ほど雄弁なものはないという格言は過去の話。訴訟社会の今日、沈黙は恭順を意味する。実際、私のような内気な人間は貧乏くじばかりひくはめになる。私が家業をついだのも、商工会議所青年部に入ったのも、副会長になったのも、結婚したのも、子供ができたのも、運転免許をとったのも、今朝フレンチトーストを食べたのも、ぜんぶ私が口下手である結果である。今年からは大いに雄弁に語ろうと思う。(以下来年につづく)
 
ジョン・レノンは聖人か、悪人か           
 十二月八日はジョン・レノンの命日だった。いまでも影響力は衰えぬどころか、最近は人気再燃の観がある。じつは私も彼の大ファンで、正規盤はむろんぜんぶもっているし、コレクターズアイテムもいくらか所有している。カラオケで歌うのも彼の歌が多い。
 で、先日彼の先妻の息子・ジュリアンのインタビューを読んだ。彼は、親父は偽善者だと語っていた。「愛こそはすべて」のような愛と平和の賛歌を歌いながら、自分に愛をそそいでくれなかったというのである。それどころか、自分が淋しい時だけ、たとえば小野洋子と別居中、息子に会いにきたとのべている。
 ジョンは「母」という曲の中で、
母よ、私はあなたのものだった
でも、あなたは私のものではなかった
父よ、私はあなたを捨てなかった
でも、あなたは私を捨てた
ママ、行かないで、パパ帰ってきて
 と歌っている。彼自身、父親は家出、母親は交通事故でなくし、幼児のころから叔母に育てられた。そのくせ、彼もまた息子を一人捨てて行った。だから私もジュリアンと同意見である。ジョンはけっして聖人などではない。しかしながら、それだからといって、彼の作品の価値がいささかも減じることはない。「母」や「愛の不毛」といった曲を聴くと、私はいまも心を揺さぶられるおもいがする。
 そういえば、バートランド・ラッセルの伝記映画を見た。彼もかつて、平和の使徒として世界中から尊敬をあつめた。しかしその実像は、息子の嫁にも手を出すという無軌道な人物で、家族はことごとく不幸を強いられ、人生をめちゃくちゃにされている。もともと私はラッセルがきらいだが、考えさせられた。彼らほどでなくとも、ある種の人たちは遭遇した人間の人生に消えぬ爪跡をのこす。
 人間の価値とはなんだろう。人生の意味とはなんだろう。偽善者であろうと悪人であろうと、確かに魅力的な人物という存在がある。その反対に、たいして悪いことはしないかわりに、いいこともしないという人物もいる。私自身そうだ。盗みもはたらかず、暴力もふるわず、煙草も吸わず、賭け事もゴルフもせず、浮気もしない。だいいち、どうしたら不倫などできるのか皆目わからないという、そのくらい無能な人間だ。だから当然、いいこともできない。人を傷つけることが少ないかわりに、多く愛する力もないのである。
 そういう自分をかえりみていつも感じるのは、まったく、私は無駄な存在だということである。いてもいなくてもいい。S澤君にいつも愛がないといわれるが、魂の深いところでそれを承認せざるをえないのである。きっとこのまま、だらだらと生を養って、朽ち果ててゆくのであろう。やれやれ。
 ジョン・レノンは、死の直前のインタビューで、平和主義者であるというのはどういうことなのだろうと、自問自答の言葉をはいている。彼もまた、みずからの存在に疑問を感じていたようだ。そしてこれから再出発しようという矢先、射殺されたのである。
 というような話を、わが親父殿にしたら、
「馬鹿、人生の意味ってのは、いい子を育てることだよ」

言葉、言葉、言葉

奉教人の死

「人生は一行のボオドレエルにも若かない」 と、芥川龍之介はいった。だが、かれのいうのが本当ならば−−いいかえれば、芸術の至上性への信仰が真実のものであれば、かれは死なずにすんだはずではないか。
芸術、あるいは文学のゆるぎない価値を素朴に信じている人間−−たとえば志賀直哉は、友人の溺死をよそにひとり助かることを願い、あまつさえそれを小説に書くことができた。盲信もここまでくれば芸のうち。それほどでなくとも、いまだに恥ずかしげもなく「文学」を信仰しうる人々のみが、のうのうと生きのびて、「芸術作品」を生産している。
人生が味気ないものであることを、なにも今更のようにいいたてることもあるまい。芥川が真におそれたのは、なによりも美神に仕える自己の蹉跌ではなかったか。

急所

芸術とは便利なしろものだ−−と、商人はいう。−−なにしろ、買い手がつかなくってもいいんだからね。

信仰

私がもっとも信じたいもの−−それこそが、もっとも信じられないものだ。同様に、もっとも信じられないものをこそ、私は信じたい。

誤解

でもそれは、私の場合、文学などではない。

ある小説のプラン

主人公は公務員、さしづめ福祉職かなにかで、けっこう社会に奉仕していると自負している。文学青年。プロテスタントの妻と愛娘ひとり。座右の書「クリストに倣いて」
休日の午後、いつものように庭いじりなどしている。ガーデニング? 炉辺の幸福。
そこに男があらわれる。痩せこけて、哀しげな眼。そう、イエス・クリストその人だ。手招きして、いう。 「鍬をすて、われにしたがえ」 招きに応ずるか、拒むか、それが問題だ。
 応じれば家族をすて、職をすて、行く手には正義の冠、選ばれし者の栄光が待っている。一個の運命として燃え尽きる、真の人生が。
 のこれば、汲々とした小市民ライフ。はははははは。意気地無し、と笑う声が聞こえる。……その先は企業ヒミツ。本篇を待たれたい。絶対、損は、させません。

アキレスと亀

「私、死ぬのがこわいの」と、彼女がいう。「そうかい。でも、ぼくくらいの歳になると、正直な話、早く死にたいって思うこともよくあることだよ。歳をとるということは、生きたいという気持ちに、死にたいという気持ちが追いついてくることさ。そのくせ、本心は死にたかないんだけどね」

反対弁論

愛は勝つ? ばかも休み休みいいたまえ。むやみに愛や正義を喧伝する行為を私は暴力とよぶにいささかも躊躇しない。聞け、良識家よ。愛や正義が必ず勝つのなら、もはや愛も正義も無用であろう。なぜなら、世界の事象はすべて力の強弱に還元しうるのだから。

罪とは

みずからのエゴイズムを否定してみせること。

アレテイア

人は、何を語ろうと何をしようと、その行為にはかならず他者を支配しようとする意志が忍びこむ。そこが分水嶺だ。
しかし、それは必ずしも善悪の問題ではない。平凡なる生の現実にすぎぬ。ただしその事実をじゅうぶんに把握しておくこと−−それが理想の翼を鍛えるなによりのプラクティスとなる。その運動の極点にこそ、肉声は発せられる。反対に、そこから眼をそらすありとあらゆる思想を、私はリアルなものだとは絶対に認めない。
その意味で、私は芥川を敬愛している。かれは近代日本人の不幸を一身に背負ったのだ。

教訓

右の頬を打たれれば、左の頬をだせ。ついでに、財布も。

債券放棄のねずみ穴

「ねずみ穴」という古典落語がある。私は談志の口演できいた。話自体もよくできているが、これは名演で、ふだんの私にも似ず、ふかくにも途中何度か涙がでた。
江戸で成功した兄を弟が訪ねてくるところから話は始まる。弟は分けてもらった財産を遊びに費やし、無一文で江戸にでてきた。店でつかってもらいたいという弟に、兄は、元手を貸すから自分で商売をはじめよと諭す。
 ふところが温かくなり喜んだ弟は、江戸の酒を一杯いこうと、おしいただいた金一封の中身をみると、そこにはたった三文しか入っていない。憤慨した弟は、兄を見返してやろうと、その三文を元手に、寝る間も惜しんで働いた。そして十年後、ついには間口三間半、蔵三つという大店の主人に出世した。
  弟は兄に、利子五両をつけて、借りた三文を返しにゆく。そこで兄は、はじめて自分の真意をあかして、こういった。
「あの時のお前はまだ茶屋酒がぬけきっておらなんだ。五両わたせば、二両は江戸の酒をと読んだが、まちがっておったか? いや、まちがっておらん。わしも大勢人をつかっている。顔をみればどんな料簡かすぐわかる。商売人が元手に手をつけるようでは、見込みがない。三文に腹が立っただろうが、そこに気づいてくれたら、いくらでも貸してやるつもりだった……じゃが、お前はたいしたもんだ、十年たつかたたないうちに自力で今の身代を築いた。どうか、この兄を許してくれ」
 和解した兄弟はつもる話もあり、兄は泊まってゆけとすすめるが、弟はねずみ穴が心配なので帰るという。火事は江戸の名物のひとつで、その難をさけるため、商家では蔵を建てている。いざという時は蔵に財産を納め、漆喰で目塗りをして、火事から守る。だが、ねずみ穴があいていると、そこから火が入るのである。つまりかつての放蕩者も、そのくらい細心な商売人になっているということだ。
 話はこれから佳境に入るのだが、それはそれとして、そごうの債券放棄の問題を新聞で読んだとき、この話を思いだした。そごうには約一兆七千億円負債があり、全店舗の半分は赤字。ところが水島前会長は経営破綻目前の去年ですら、四億円近い報酬を得ている。どんなりっぱな再建計画を提出しようと、これでは商売の元手に手をつけているも同然だ。こんな放蕩者にたいして、銀行はそろって債券放棄に応じ、国も追随する。
  賢い兄ならそんなことしないだろう、と私は思った。護送船団方式という名の温情主義は、きびしい自由競争の経済社会では通用しない。ほうぼうにあいた「ねずみ穴」から火が入り、いずれ元も子もなくすだろう。一般銀行はいざしらず、預金保険機構まで債券放棄に応ずるなんて、言語道断の愚行である。
 政府は苦渋の選択だというが、国民の経済的負担よりも、国が私企業の借金を棒引きにするというそのことから発する精神的影響のほうがよほど恐ろしい。不透明な保護主義は責任感と活力を奪うものだ。

運命のプロトコル

不慮の事故で大切な人を亡くした。大学の先輩なのだが、良き兄貴分という感じで、本当にかわいがってもらった。相当な毒舌家で、私などもずいぶんからかわれたが、独特なユーモアがあって、いつも笑いがたえなかった。
  有為な青年実業家として将来を属望されるいっぽう、この上なく家庭を大切にし、社会のつきあいも疎かにはしなかった。何事にも骨惜しみしない人だったと思う。
  先輩は犬をつれて歩道を散歩中に、若者の運転する改造車にうしろからひかれた。その瞬間、輝かしい未来が一つ失われた。訃報に接した私は、哀しくてくやしくて、無性に腹が立った。その若者にたいしてというより、理不尽な運命にたいして腹が立ったのだ。
  運命ほど過酷で不条理なものはない。それは私も知っている。旧約のヨブ記にあるように、全く非のうちどころのない人物ですら最悪の悲運に見舞われるというのは、古来から知られていたこの世の現実である。
  そこには何の説明もない。人知を超えた力だけがある。
 義人ヨブは、みずからにあたえられた過酷な運命を、神の試練だと考える。そして、神から幸をうける以上、災いをもうけるべきだと悟り、以前にもまして敬虔な生活を送る。
 信仰をもたない、たとえばセネカのようなストイックたちは、暴君の圧制の下で倫理的な努力を続けながら、人間的自由の最後の拠点を自殺に見いだしていた。外部の現実と心の平和との均衡を保つという彼らの理想がやぶれる時、決然とその両方を消し去るのが最善の方法とみなされたのだ。
 一方、サルトルのようなヒューマニストは、運命それ自体をみとめない。自己は無限に自由なのだ、と。
  しかし私は運命を信じる。
  なぜなら人間は自己を選ぶことができない。親も、兄弟も、結婚相手も、友人も、学校も仕事も、なにひとつ自由に選べはしない。古風ないいかたをすれば、縁があったということだ。すべてはあらかじめ書きこまれている。かりに運命のプロトコルというものがあれば、それを解読することで、私がどこから来てどこへ行くのかすべてわかるであろう。
  それならば人間に自由はないのか。しかり、自由など無い。
  齢を重ねるごとに、つらく哀しい現実に打ちのめされる。人生とは、ひとにぎりの喜びのオマケに不幸がどっさりついてくるものなのだ。なんぴとも運命を改変することはできはしない。とすれば、努力や克己は不毛ではないのか。真実も善も無意味ではないか。私は運命に腹を立てていた。
  一夜、Sさんとふたり、後輩同士で、先輩を偲ぶ会を催した。そこで出た結論はこうである。
 人生の意味は結果から計られるものではなく、重要なのは、どのような人間として死ぬかということである。すべてが運命できまるからと空しく過ごすのは、怯懦の言い訳にすぎぬ。運命に報酬を期待してはならない。密度の高い人生を送るというそのこと自体が報酬なのだ。少なくともそう考えて精いっぱい生きるほかはない。先輩はまさにそのように生きた人だった。

 

神の国?

「神の国」といえば、日本では森首相だろうが、世界的にはやはり、アウグスティヌスであろう。彼は西ローマ帝国末期の思想家で、一般的にはスコラ哲学の先駆者とみなされている。彼の神国論によれば、神の国とは、大ざっぱにいうと天国のことで、「地の国」たる現世とは明確に区別される。ローマ・カトリック教会ですら、その例外ではない。
 彼にはまた「告白録」という名著があり、そこには自身の過去、快楽主義的放蕩無頼の生活が告白されている。しかしながら、そこには一かけらの釈明もない。真摯な自省の念と神の賛美で全編つらぬかれている。真の信仰者とはこういうものか、と異教徒の私ですら感動したおぼえがある。
 それにひきかえ、森首相の一連の言動に私は失望させられた。これは一部でいわれているような、「信教の自由」という本質論とはなんの関係もないくだらない問題だ。
  なぜなら森首相自身、日本が「天皇を中心とする神の国」だなどと本気で信じているわけではないからだ。首相は選挙に勝ち政権を維持したい一心で、過剰なリップサービスをしたにすぎない。仏教徒の前なら、「日本は世界に冠たる仏教国であります」といったかもしれない。いずれにしても、信仰など無いからこそ気軽にあんな発言ができたのだ。
  要するに頭にあったのは票数だけで、「有権者は神様です」というのが彼の信仰の正体であろう。天と地、神と人間、理想と現実を峻別して苦闘したアウグスティヌスとは、それこそ天と地の差がある。確かに右翼的気分はあるが、それは強い信念とはいいがたい。信仰とか信念というには、あまりに気軽であり低調である。
  森首相は運のいい人だ。前回の総裁戦では、派閥の親分でありながらみずから傷つくのを恐れて小泉さんを出し、しかも自派の票すらまとめ切れずに大敗した。にもかかわらず党の幹事長となり、ついには戦わずして総理総裁となった。運は天にあり、ぼたもちは棚だと有頂天になり、いささか口をすべらせたのもうなづけるというものだ。
  不運なのは国民である。秘書がわたしたメモを読む以外は発言を禁じられている人物をリーダーに担いでいる。じつに哀れである。そのうえ間の悪いことに、クエスチョンタイムにも出られぬ御仁が、こともあろうにサミットを主宰するかもしれない。そうなれば、わが国の将来は漆黒の闇だ。
 どうしてこうなるのだろう。自民党にも、政策通で実行力のある議員は何人もいる。なにも森首相でなくていいはずだ。論語にいうように、木の葉は沈み石は流れるのがこの世のつねなのであろうか。私はどうしても納得がゆかない。私たち自身のうちになにか悪いところがあるに違いない。
  だが密室の中で現政権を成立せしめた野中氏一派は、どのような釈明をしようとも、国政を私し、その代償として国益を犠牲にする亡国の徒であるという謗りを免れぬ。責任は傀儡の森首相に負わせ、自分たちは生き残るつもりだろう。
  天地は仁あらず、聖人は仁あらず、か。

 

去年の書籍ベストセラーリストを見て、いわく。
「成程、ロバは黄金よりわら草を好むものだ。エチオピアはべつだが」

悲観主義も徹底すると楽観主義に近づく。

こんな色紙がほしい。
 森首相 「棚からぼたもち」
 小沢自由党党首 「棚からぼたもち、盗まれた」             

山口県で最近よくある話。
「買ってもらいたいものがあるんだけど」
「そうか、じつは僕もあるんだ」
二人がポケットから出したのは、どちらも、きらら博の前売り券だった。

(解説)山口県庁では、来年に「山口きらら博」を開催するが、赤字を埋めるために、県内のあらゆる団体に、前売り券のノルマを課している。つまりは、姿なき増税というわけだ。

「ちかごろ取締りがユルイなあ」
「ああ、身内をつかまえるので手一杯さ」

 不惑をむかえて。
「歳をとるということは、生きたいという気持ちに、死にたいという気分が追いついてくることだ」

K氏の家族紹介
「息子はポケモン、パパノケモン。
娘はコギャルで大バカモン。
おまけにも一つ、ママバケモン」

生半可な善人は、悪人に似ている。

『国民の歴史』を読む 上

 本書はたんなる日本史の解説書ではない。論争の書である。
 作者西尾幹二氏には、物分かりのよい顔で世間に迎合しようなどという気配はみじんもない。それどころか、行間には現在の風潮と真向対決しようという意志がみなぎっている。 こうした書物を読むには一定の心がまえがいる。
「足なみの合わぬ人を咎めるな。彼は君が聞いているのとは別の、もっと見事なリズムに歩調を合わせているのかもしれないのだ」
  これはソローの『ウォールデン』にある言葉である。われわれもソローにならって、西尾氏がどんなリズムに歩調を合わせているのか、それをまず吟味する必要がある。
  しかし私の読んだ書評は、足なみの合わぬ著者への反発か、あるいは逆にひいきの引き倒しか、その二つのいずれかで、どちらも生産的なものとはとてもいえぬものばかりだった。 『世界』二月号に出た近藤孝弘氏の批評も、自説を主張するに急で、『国民の歴史』それ自体への言及ははなはだ粗雑である。本書を「皇国史観の亡霊」と決めつけ、人気の理由を、「国家と民族のすりかえ」と「戦後タブー化された事実にふれている点」に限定し、要するにナショナリズムを煽るデマゴーグだと批判している。
  だが西尾氏はそんな批判を意に介しない。むしろ敗戦を終戦といいかえ、みずからを戦争の主体者から軍国主義の犠牲者へと器用に転換した戦後日本にたいして、実体験を通して反証をこころみる。自分の過去にたいして、口をつぐんで知らぬ顔をきめこむのはおかしいではないか、そんなことで世界平和に寄与できるはずはないではないか、と。
  そこから導きだされる問いは二つ。戦前戦中のアイデンティティを全否定して再出発した日本は、経済的な繁栄とひきかえに何か大切なものを喪失したのではないか。
  もう一つは、戦後日本が信じてきた太平洋戦争における連合国の正義とは普遍的真理なのか。
  この二つの問いは、戦後日本の自己欺瞞への批判へと収斂してゆく。大ざっぱにいえば、過去を否定してしまったために過度の欧米文化崇拝に陥り、自己喪失に陥ってしまったというのが、西尾氏の現状分析である。彼は日本の外国崇拝に傾きやすい歴史的条件について語りながら、アイデンティティの再構築という困難な課題に挑戦している。
  それにたいして近藤氏は、「古代から現代に到る継続性という歴史理解そのものを問題とし、脱民族化を目指す現在の意識によって過去を再構成すること」こそが大切なのだと反論をくわえた。
  しかし西尾氏は、そうした過去を再構成しうると考えるような思い上がりをこそ、批判しているのだ。 脱民族化などというグローバルな問題を、学者の観念的な操作で解消しうるなどと誰が信じえよう。皇国史観はもちろん、こういう学者の御都合主義にもつきあいがたいと、私は思う。

『国民の歴史』を読む(中)

  読みはじめてすぐ、ははあ、これは本居宣長だな、と感づいた。
  宣長の業績の一つは、「日本とは何か」という問題を追求した点にもとめられる。
  彼は『古事記』の読解を通じて、日本文化の根源に照明をあてた。その結果、日本と中国は二つの異なった文化圏を形成しているということが明らかにされた。もっともそれは、『国民の歴史』以上の反時代的考察だった。
  というのも、宣長の生きた時代は中国文化崇拝の時代だったのである。学問といえばまず儒学。漢文を読めることが知識人の条件だった。あくまでお手本は中国である。むろんそれは悪いことではない。しかし度が過ぎれば、卑屈なコンプレックスにおちいる。じじつ、知識人はみずからの肉体である日本的なるものを貶めていた。
  宣長はそうした文化的倒錯を「漢意(からごころ)」とよび、はげしく批判した。のみならず中国とはまったく異なった日本文化のありかたを示すことで、むやみな中国文化崇拝の傾向を正そうとしたのである。 で、これを、中国は西洋、漢文は英文に読みかえると、近代以降の日本になる。
  かつて東北大学で教鞭をとったK・レーヴィットは、日本の知識人は二階家に住んでいると批評した。抽象的な問題を論じるときは二階の西洋間にいて、実際の生活は一階の和室でする。しかも一階と二階は断絶している、と。じつに身につまされる話ではないか。
  西尾幹二も、宣長やレーヴィットと同じ認識に立っている。『国民の歴史』のモチーフは、宣長にならって、日本文化の独自性を明らかにすることで現在のアメリカ一辺倒の風潮を批判し、「漢意」ならぬ「米意」とたたかうことにある、と私には思えた。
  ところがなんのことはない、読みすすむうちに、「本書は中国と欧米社会に対する日本人のこの『漢意』をいかに打倒するかというパッションに貫かれていることに、勘のいい読者はすでにお気づきであろう」と著者自身が先回りして書いている。 さらに次のように、執筆の決意が語られている。
「漢意が自分を卑屈にし、普遍文化への接近どころか、逆に自立心の喪失にまで立ち至っていると私には思われる。『国民の歴史』は、この間の心理的経緯をことごとく心得た上で、あえて漢意に抵抗しつづける一書である」
  日本のすぐれた知性はいつも二重の姿勢をとらされてきた。宣長の場合、日本の漢意を否定しながら、その背後にある儒教的世界観をも批判した。西尾氏も同様に、日本の近代を分析しながら、近代そのものの批評に達している。彼は現代社会を、理性への盲目的な信仰がいっぽうにありながら、他方には漠然とした不安が弥漫しているとスケッチする。
  科学万能主義と、ノストラダムスやカルト宗教の流行が共存する。諸国民の公正と信義に信頼をおきながら、そのくせ誰ひとり信用できない。倦怠と退屈が世をおおう。著者はこうした現代社会のありかたに、近代の終焉と破産を見ているのである。

『国民の歴史』を読む 下

 前回まで、私にしてはめずらしく好意的な書評に終始したら、悪友連から、お前は右翼か、とつるし上げをくった。むろん私は右翼ではないし、だいいち、いかなる意味においても、××派だったり、××主義を標榜したことは、いまだかつて一度もない。
  だからというわけでもないが、最終回はいささか批判めいたことを書いてみたい。
  で、まず第一の不満。本書はレトリックの面白味、文体の緊張、修辞の緻密に乏しい。よくいえば平易な語り口だろうが、内容は興味ぶかいのに、少なくとも私の場合、純粋な読書の悦びを味わうことはできなかった。
  第二に、著者の漢意論に疑義がある。
  日本の場合、近代化は西洋化をともなうものであった。しかし明治の人は見事に近代化を推進するいっぽう、「和魂洋才」を唱え、技術は受け入れても、西洋の一神教的精神は拒否したのである。その伝統は三島由紀夫、西尾幹二にいたるまで綿々とつづいている。
 著者は日本人が、「西洋の闇を見ずに光だけを見」たといい、その光は「近代という普遍文化」だとのべている。要するに、彼のいう「普遍文化」とは「洋才」である。だが、「洋魂」はかならずしも闇とはいえぬ。いや、一歩ゆずって、闇としてもいい。しかし著者の定義によれば、漢意とは「盲目的崇拝」のことなのだから、本来ならば、その闇をも受容していなくてはならないが、彼自身みとめているように、近代の日本人は西洋の闇をみのがしたのである。それは矛盾ではないか。
 つまり私がいいたいのは、漢意とは外国への盲目的崇拝などでなく、めさき役立つ洋才だけを受け取ろうとする、いいとこ取りの要領のいい処世術のことで、しかもそのことに気づかぬ精神的態度だということである。したがって私は、著者やその周辺の保守主義者の主張するように、洋魂にたいして和魂を対置しようとする方向に同意できない。なぜなら、それでは漢意を排することにならず、むしろ温存することになるからだ。
  このことは彼らの攻撃の的になっている日本の「弱腰外交」に端的にあらわれている。自己と他者を、人間と自然を切断して考えるのが洋魂であり、国際社会がそうしたルールにもとづいている以上、日本の和をもって貴しとなす融和的精神はけっして通用しない。それゆえたとえ「ノーと言える日本人」であっても、相手にイエスをいわせることにおいてはとても期待できない。
 外交上の成果をあげようと思えば、向こうのルールにしたがうほかない。同様に、グローバリゼーションのすすむ現代の状況において日本が生き残ってゆくには、いたずらに洋魂を拒否するのではなく、彼らの暗黙のルールをわがものとする必要がある。
  ただしそれは茨の道だ。自他を峻別する西洋流の生き方を学ぶことは、あたかも自己を引き裂く行為に似ている。ひどい苦痛をともなうであろう。だがいまこそ、西洋の闇と格闘する時ではないのか。それでつぶれるほど和魂は脆弱なものではないと私は信じている。「自立心の喪失にいたる」のをふせぐには、和魂を守るのではなく、むしろ噛み合わせることだ。自己否定をへた自己こそが信頼に足るのである。

私の見た田中角栄

 最近、雑誌で田中角栄論をよく見かけるので、今日はひとつ、私も自分の目で見た彼のすがたをここに記してみたい。
 学生のころ、先輩の紹介でH会という自民党の政策集団の事務所に出入りしていたことがある。四ツ谷の文芸春秋のすぐ隣のビルにあり、Fさんというコワモテの親分がいた。この人は東大を出て共同通信の記者となり、田中角栄の政策秘書をしていたという経歴の持ち主で、早坂茂三氏の先輩にあたる。「日本列島改造論」の原形をつくった人ということだったが、意見の相違で田中事務所を出て他の派閥に移っていた。
 私は政治的関心などまったくなく、実のところ、そこの美人秘書めあてに通っていたのだが、どういう訳かFさんは私をかわいがってくれて、仕事の合間に人生論から英会話まで、さまざまな教育をしてくださった。そのなかでよく角栄さんの話が出た。
 田中角栄ほど頭のいい男に出合ったことはない、というのがFさんの口癖だった。直観的に物事を把握する能力、記憶力、とっさの判断力、いずれも比類のないレベルであり、ニクソンや周恩来と対等にわたりあえた。その意味で、世界でも有数の政治家だということだった。東大出の官僚たちもみな、その能力にたいして畏敬の念をいだいているという。
 当時は中曽根首相の時代で、田中角栄は闇将軍といわれキングメーカーとして君臨していた。そのぶんマスコミのバッシングも激しく、私も金権政治の親分くらいに考えていた。しかしFさんの話を聞いているうちに、田中角栄という人物に興味がわいてきた。ちょうどその時、ある代議士のパーティーで、なまの角さんを体験することができた。そこで私の評価はがらりと変わった。
 何人もの大物政治家のスピーチのなかで、田中角栄の弁舌の巧みさ、発散するエネルギーは群をぬいていた。しかし私がおどろいたのはそんな事ではない、その慈愛にみちた内容である。自分の派閥の議員にたいする、父親にも負けぬくらい愛情にあふれたスピーチだった。「角さんは札びらで地位を築いたのではないよ」というFさんの話を、私も実感した。
 彼は新米の秘書にはかならず、
「料理屋などに行っても、でかい態度で仲居さんや下足番のお爺さんを怒鳴りつけたりするようなことは、俺が絶対に許さん」
 と厳しく訓示したという。下積みの苦労を人一倍経験しても、いったん成り上がれば、そういう人々を踏みつけにするのが人間のつねであるが、角栄さんはそうではなかった。だから病に倒れたときも、全国のさまざまな無名の人から、毎日毎日、病気に効くという漢方薬や食品が届いたそうだ。
 私はいまも田中角栄は温かい人だったと信じている。それを人気取りの擬態だとは考えない。異才のある人物であり、金権政治家であり、心の温かい人だった。田中角栄とはそういう複雑な存在だったのである。

エリートの敗退?、または戦後の黄昏

3月10日
 昨年の神奈川県警の不祥事から、今年は新潟県警と失態がつづき、警察機構全体がきびしい批判にさらされている。ほとんど袋だだきといっていい。その点、私は同情的である。これは警察だけでなく、日本全体のかかえる問題であると考えるからだ。
 とはいえ、「職業倫理」の退廃だというような論調には反対である。私は「職業倫理」とか「政治倫理」というような言葉を信じない。政治家には政治家の、寿司屋には寿司屋の独自の倫理があるなんてことはない。倫理というものは本来、普遍共通にはたらいてこそ意味があるのであって、立場によって変化するものであってはならない。
 問題は、エリートたちの無能ぶりである。
 少女監禁事件で新潟県警は、保健所職員の再三の要請にもかかわらず出動しないというミスを犯した。しかも、それをごまかそうとした。報告をうけた本部長は、接待麻雀中で、そこからそのまま現場に指示をだした。そして県警は虚偽の記者会見を開いた。
 小林前本部長は、麻雀しながらでも的確な指示はできると威張っていたが、それが適切な処置でなかったのは明らかである。事件が起きても本部長自身が腰を上げないんだから、部下が出動要請に応じないのはあたりまえだろう。しかも麻雀の相手は特別監察にきた警察局長。ことが露見すれば、最悪の場合、警察機構全体をもまきこむスキャンダルに発展しうると当然考えるべきだ。しかしそういう事態の深刻さが全然予測できていない。奇跡的なくらいのん気な人か、それとも事件の処理能力が欠けているのか、実にふしぎだ。
 同様に国家公安委員会も、持ち回りでああいう軽い処分を発表したこと自体、状況判断の甘さと旧弊を脱しえない決断力のなさを露呈したと批判されてもしかたがないだろう。 また、越智通雄前金融再生委員長の辞職も同じ事例を示している。本人はちょっとしたリップサービスのつもりだろうが、世間が政府の金融行政を注視している現状を考えると、あんなことをいえるはずがない。たんなる失言にしても、あまりにもおそまつではないか。彼もまたキャリア官僚出身者である。むろんこれらは氷山の一角にすぎぬ。
 いずれにしても彼らは、エリートとして日本の危機管理のトップの地位にありながら、自分のおかれている状況さえ把握できず、したがって的確な対応もとれぬままに、ぶざまに敗退した。つまり彼らは自分自身の危機管理もおぼつかぬ人物だということだ。
 だが、私たちは彼らを笑うことはできない。彼らは疑いなく私たちの知的指導者であり、一連の不祥事はキャリア官僚だけの問題ではなく、彼らをいただく私たち自身のぶざまな敗北でもあるのだ。そしてこのことは、教育や社会制度の歪みのみならず、その背後にある日本の戦後的価値の破綻を暗示しているのである。

茶髪ピアスと国際政治

2月15日
 某誌の年末対談の席で、茶髪・ピアスについてどう思うかと質問された。私も学生のころは肩までのばしたカーリーヘアーだったので、それと同じことだろうと答えた。
 私のは英国ロックの影響だったが、「やまんば」に代表されるいまの若者のファッションは、黒人のストリートスタイルからきている。肌までわざと黒くするなんてのは世界にも例のないことで、よくいえば人種偏見のない日本人の無邪気さのあらわれだといえよう。きびしいレイシズムを経験したマイケル・ジャクソンが肌の色を白くしているのと対照的である。
 昔も今もそうだが、外来文化の移入というものはつねに一面的だ。黒人も始終ストリートスタイルでいるわけではなく、パーティーにはドレスアップしてタキシードで出かける。そういう常識がおき忘れられている。ファッションにかかわらず、こうした情報の偏向というのはあらゆる分野にみられる。
 たとえば何かにつけアメリカを引き合いにだす進歩的な人々がいまだにハバをきかせているが、彼らの主張もまた表面的なものだ。米国が掲げる理想主義はあくまで表看板であり、その実体は彼らの考えるほど単純ではない。その証拠に、WTOでもCTBTでも環境会議でも、なんのためであれ、米国は自国の利益を犠牲にする気配などまるでない。
 このたびのG7でも、協調介入して円高をふせぐ条件として、日本は内需主導型の経済再建とゼロ金利政策を約束させられた。それが世界経済の、そして日本自身のためだという。しかし考えてみれば、結局のところ、日本は預金をはきだして米国・EUの商品を買えということにほかならない。
 このように欧米、ことに覇権をにぎっている米国は、自由・平等・人権・平和を表看板にして各国の同意をとりつけながら、その実、かならず自国の利益を最優先に事をはこんでいる。しかもそういう手法にいささかの後ろめたさも感じてはいない。
 とはいえ、私は反米主義を主張しているのではない。こうした二重の姿勢がアングロサクソンの強さだといっているだけだ。のみならず、この二重性というものを意識した行動をとらなければ、日本の将来はふたたび暗雲に閉ざされるであろうと思っている。
 学者や文化人はさかんに、真のグローバリゼーションとは何かというような研究や提言をしているが、私にいわせれば、そんなのはナンセンスだ。グローバルスタンダードとは、現実にはアメリカン・スタンダードのことで、少なくとも現時点では、日本にはそれを拒否する実力はない。とすれば、われわれはこの苦い現実を前提として思考し、行動するよりほかにないのではないか。そしてそれ以前に、百鬼夜行の国際社会をもっと知るべきである。茶髪・ピアスの若者が増えたからといって、日本人が国際化したとはいえないのだ。 
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