序章〜壱〜


 緋勇龍麻は、真神学園の前で立ち止まった。
 詰襟の辺りを確かめる。
 大丈夫。
 何も不自然な所はないはず。
 小さく息を吐き、呼吸を整える。
「――大丈夫」
 漏れる声も、低い、男として当たり前の声になっていた。
 大丈夫、ちゃんと、やれる。
 龍麻は、自分に何度も言い聞かせる。
 生来の自分の気弱さが、腹立たしかった。
 ――ともすれば、足が震えそうで。
 臆病でただ庇護されるだけだった甘えた『私』はもう死んだはずではないか。
 自分は、緋勇龍麻。
 強く強く強く。
 強く、いなければ。
 その決意とともに、蘇る血の情景に龍麻は息を飲んだ。
 悲鳴を上げる胸を、押さえる。
 頭を、小さく振る。
 そして、彼女――いや、彼は顔を上げた。
 その目にはもう、一瞬浮かんだ苦痛の色は殺されていた。








 高校三年の時期に入ってきた転校生に、クラス中の好奇の目が集まる。
 明るく、穏やかそうな。――だが、どこにでもいるタイプ。
 それが、クラス中の龍麻の第一印象だった。
 身長は160cmと少し。大目に見ても165cmもなさそうだ。男にしては、背も小さく、全体的に小柄な感じがする。
 クラスの女子には多少の落胆、男子には大きな安堵が拡がる。
 だがそれも、社交辞令程度にプロフィールを聞き出していた女生徒の一人が、彼の顔を隠すように伸ばされた前髪を、何か惹かれるものを感じて軽く上げた時までだった。
「――びっ――」
 その女生徒の声が、裏返った。
 龍麻は、彼女の突飛ともいえる行動に驚く。
 さらに前時代的な彼女の叫びに固まってしまう。
「――美少年!!」
 とたん、女子生徒たちが色めきたった。
 そうやって見て見れば、小柄ながら均整がとれているし、顔が整っているのはもちろん、特に目などはハッとするほど綺麗だ。
 どうして黒板の前であまりパッとしないタイプに見えたのかが不思議なほどに、彼は魅力的だった。
 反対に、龍麻は内心苦く思っていた。
 あまり目立ちたくなかったので、故意に氣を整えて地味な雰囲気を纏っていたのだ。
 美少年だと言われても、自分が美形だとは欠片も思っていないのだから嬉しくとも何ともなかった。顔がただ女顔なだけ、それだけだ。それも、本当は女なのだから当たり前だった。
 さっきまでと力の入れようが違う質問攻めに、龍麻は何とか普通に答えていた。
 自分の性別が露見する危険を少なくするため、目立たず他人とも関らずにいるつもりだったのだが、こうなれば反対にバレにくくなるかもしれないと、考え直す。
 美少年だから、女顔だから、と思いこんでもらえれば多少の不自然さも変に思われずにすむだろう。
 そこまで考えて、龍麻は「目立たない地味な転校生」から、女生徒曰く「女の子みたいに可愛い転校生」に自分の態度を切り替える。
「よろしくね」
 龍麻はにっこり笑った。
 むしろ、地味で押さえる演技より、こちらのほうが自然でやりやすい。ただ普通にしていればいいのだから。
 もう死んでしまった『彼女』は、内気でありながら決して暗い女の子ではなかったからだった。
 龍麻の生年月日を聞いた女生徒の一人が、明るい声を上げる。
「私、相性ピッタリだわ!」
「王蘭のプリンスにもそう言って迫ってたくせにー」
 もう一人の女生徒がそう突っ込んでいる。
 龍麻は唖然となった。
 『王蘭のプリンス』?
 言葉も凄いが、そのイメージから金髪長髪巻き毛が浮かんで、自分の想像の貧困なそれに龍麻はぷっと笑ってしまう。
 そして、自分が自然に笑ってしまったことに驚いた。
 龍麻となって初めてかもしれない。
「緋勇君?」
「あ、ごめん。何でもないよ」
 龍麻は言って、微笑んで見せる。
 どんなことがあっても、人間というのは笑えるものなんだな、とかすかな暖かい気持ちとそれ以上の罪悪感でもってそう思った。





 昼休みに入って、隣の席の女生徒が龍麻の傍らに立った。
 美人だな、と龍麻は改めて前に立つ女生徒に思う。
 美里葵と名乗った彼女の話を、龍麻はぼんやりと聞いていた。
 名前まで綺麗だと思う。
 なぜだかとても惹かれた。
 ただ美しいだけではないことに、龍麻は気づいた。龍麻は真の龍麻ほど氣を読む力はないのだが、それでも彼女が放っている氣が清廉で優しいことが分かった。
 そう思って見ると、美里の周りの空気だけが祝福されたように柔らかいのが分かる。
 ふいと自分の陰を自覚してしまって、目をそらした。
「緋勇君?」
「あ、うん。よろしく。できれば龍麻でいいよ、美里さん」
 龍麻はそう、さっき他の皆にも言ったことを言って笑う。
 緋勇と呼ばれるより龍麻と呼ばれるほうが、自分の使命を常に自覚していられそうでよかった。
 自分だけに言われたなら断るだろうそれを、誰にでも言っていたのを知っている美里はにっこりと返した。
「ええ。わかったわ、龍麻君」
「うっわー。はやっ」
 元気な声が、そう割り込んで来た。
「もう葵を口説いてるんだ!?」
「もう、小蒔ったら・・・・。そういうのじゃないわよ」
 美里がそうたしなめる。
 小蒔と呼ばれた女生徒は、にこっと龍麻に笑った。
「へへ。ごめんごめん。えっと・・・・龍麻君、でいいんだよね?」
 そして簡単に自己紹介すると、よろしく、と明るく言ってから続ける。
「ボクのことも小蒔って呼んでいいよ」
「じゃあ、小蒔さん」
「あう・・・・なんか、サンづけされると変な感じ。呼び捨てでいいよ」
「じゃあ、俺のことも君はいらないから」
「うん!」
「おいおい、両手に花かい、転校生君」
 木刀を肩に担いだ格好で、男子生徒が龍麻を見下ろした。
 格好と台詞のわりに、目と声が面白がっている。
「京一君」
「京一」
 美里と小蒔がそう呼ぶ。
 ずいぶんと親しげだった。
 友達かな、と龍麻は思う。
 京一と呼ばれたその生徒は、頭をかいて続けた。
「あっと・・・・・花は美里一人だったな♪」
「――どーいう意味だいっ」
 小蒔の切れのいい拳が京一にとぶ。
 くすっと龍麻は笑った。
 ここは、暖かい場所だな、と思う。
 そんな龍麻に、京一は振り向いた。
「蓬莱寺京一だ。よろしくな、龍麻」
 さきほどの美里たちとの会話を聞いていたのか、そう言う。龍麻も頷いた。
「よろしく、京一」
 君をつけようかとも思ったが、小蒔を呼び捨てで京一を君づけなのは変な気がしてやめる。
 美里があっと声をあげた。
「私、生徒会室に行かなくちゃ・・・・」
「あ、じゃあ、ボクも途中まで一緒に行くよ」
 龍麻に後でね、と手を振って女二人教室を出て行ってしまう。
 京一はそれを見送ってから、龍麻の肩に手を伸ばした。
 龍麻はその手を、肩に触れる前にきつく払う。
 ぱしりと、思ったよりも大きな音がした。
「?」
「・・・・ごめん」
 龍麻は、小さく笑った。
「俺、人に触られるの嫌いなんだ」
 声は作れる。服も胸を押さえているし、学生服なら体の線も隠せる。そして纏う氣の力で『男』という雰囲気を作り出している。しかし、実際の骨格と肉付きだけは変えられない。触れば、腕も肩も、男のものとは明らかに違う。少し鋭ければ、すぐに気づかれてしまうだろう。
 龍麻は女生徒たちにさえ、決して自分に触らせなかった。
「ふーん」
 あまりいい気分はしないが、まあ、男に触られるのは楽しいもんじゃないしな、と京一は納得する。
 肩を引き寄せるのはやめて、京一は顔だけを近づけた。
「派手なことすんなよ、転校生」
「?」
「あんまり目立ってると、目ぇつけられるぜ」
 京一の動いた視線の先を、龍麻も追う。
 そこには、面白くなさそうにこちらを見るいかにも不良といった男の姿があった。
「あいつ、美里に気があるしな。佐久間っつって暴れると危ないヤツだから」
 京一は身を離すと、ニッと笑う。
「ま、気をつけな、龍麻」
「わかった。ありがとう」
 
 
 

 放課後になって、部活等で殆どの生徒が足早にいなくなる。
 午後からの授業に京一が戻ってこなかったのを、龍麻は思った。
 サボリだろうが、彼は部活には出るのだろうか?
 そんな、どうでもいいことを思いながら席を立った時、数人の不良に囲まれた。
「ちょっと面貸しな」
「どうしてだい?」
 龍麻は小さく首をかしげる。
 彼らを刺激するような何も、自分はしていないはずだった。
「佐久間さんがテメエに用があるんだよ」
「佐久間・・・・さん、が??」
 京一の忠告が蘇る。
 しかし、その後に自分は何もしていないはずだが・・・・。
「ちょおおっと!」
 昼休みに知り合った杏子が、だっと割って入った。
「杏子・・・いつの間に・・・?」
「特ダネのピンチ――じゃなかった、友達のピンチには敏感になるものよ! 友情ってヤツよ」
 そうふふっと笑ってから、杏子は不良たちに向き直る。
「龍麻君をどーする気よ! 言っとくけど、彼の顔を傷つけるようなことしたら、この杏子さんが許さないからね!」
「このアマ・・・・。テメーには関係ないだろうが」
「関係大有りよ! 龍麻君にはこれから取材して新聞のトップを飾ってもらって、あまった写真焼きまわしして売るんだから! 顔に傷ついたら値段が下がるでしょ!」
 びしっと友情とは全く関係ないことを言いきる杏子だった。
 あまりのことに呆然としていた不良たちの後ろに、佐久間が現れた。
「ったく。使いもできねーのかお前らは」
 しばらく杏子と佐久間の刺々しい会話が続く。それに焦れたように、佐久間は舌打ちした。
「ウルサイってんだよ!」
 伸ばされた手に、杏子はびくりとする。
「彼女に触れるな!」
 龍麻の声に、佐久間は龍麻に視線を戻した。
「・・・・テメーが黙ってついてくりゃいいんだよ」
「――分かった」
 龍麻は、息をつく。
「龍麻君!?」
「ありがとう、杏子。大丈夫だから心配しないでくれ」
 安心させるように言ってから、龍麻は佐久間の後をついていった。
 杏子はどうしていいか分からずに、誰もいなくなった教室を歩き回る。
 こんな時だけは頼りになる京一もいないし、今日は醍醐の姿も見えない。
「どうしよ・・・・・」
 どう考えても龍麻が佐久間たちに敵うとは思えない。
 先生に言ったほうがいいのだろうか?
 いっそミサちゃんに遠くから佐久間たちを呪ってもらうとか!?
 杏子が混乱してそんなことを考え出したころに、教室の扉が開いた。
 生徒会が終わった美里だった。
「杏子ちゃん、どうかしたの?」
「み、美里! ――大変なの!!」
 杏子は美里に駆け寄った。






 体育館裏の木の上で寝ていた京一は、ざわめく氣の気配にふっと目を開いた。
 なんだ?
 下を、見やる。
 佐久間たちが転校生を囲んでこっちに来ようとしていた。
 この時期の転校生ということで、どうしても目立つ。さらに悪いことに、龍麻は女生徒に人気が出てしまった。
 美里が親切なだけに、佐久間としては許せないのだろう。
 ――どうすっかな。
 女子なら頼まれなくても助け出すところだが、龍麻は男である。いじめになるようなら放っておかないが、はたして手をあわせもしないうちに手をかすのはどうだろうかとも思った。
 殆どの責任は龍麻にないとはいえ、美里に名前を呼ばせたのは龍麻の責任だ。
 それはそれだけの覚悟があったということだ。
 京一には勝てる自信は十分だが、佐久間はあれでなかなか強い。事実、この学園で佐久間を倒せるのは自分が醍醐だけだろうと京一は思っている。
 それでも佐久間一人で龍麻を相手にするなら、勝負がつくまでは手を出さなかっただろう。
 しかし、5対1。
 手助けには入るつもりだったが、京一は最初から手をかすかどうかは決めかねていた。
 龍麻を見る。
 龍麻は、たしかに怯えていた。
「・・・・・・・・・」
 京一の心は決まった。
 佐久間たちが龍麻へ手を出す前に、京一は声を投げた。
「よお。転校生への悪ふざけにしちゃあ、ちょっとばかり大げさじゃねーか?」
 すたり、と木から飛び降りる。
「く、蓬莱寺!」
「――五月蝿くって、サボってゆっくり昼寝もできねーぜ」
「京一・・・・・」
 まだ怯えの残った目が、京一を見上げている。
 男にそこまで優しくするのはガラじゃなかったが、なぜか京一は自然と、安心させるように笑って見せていた。
「大丈夫か? だから気をつけろって言ったろ?」
 頷く龍麻を見て、京一は彼が1度も殴られないうちに割ってはいってよかったと思った。
 そして京一は、佐久間に目を向ける。
 佐久間は、凶悪な歯軋りをした。
「そいつの味方をするつもりか、蓬莱寺。・・・前からオレはテメーも気に入らなかったんだ、一緒にフクロにしてやろうか」
「それは奇遇だな。俺もお前の見苦しいツラが気に入らなかったんだ」
 京一は言いながら、龍麻の頭に手を乗せると、ぐいと自分の背に押しやった。
 佐久間が、うなる。
「やるつもりかよ、蓬莱寺」
「おう。――やってやるぜ!」
 京一は木刀を握りなおした。
 背後の龍麻に声をかける。
「龍麻! 俺のそばから離れるんじゃねーぞ」
 龍麻が頷いたかどうかは、京一には見えなかった。

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