廻り始めたもの〜壱〜
| 「・・・・・ここか」 龍麻は、旧校舎を見上げた。 夜の闇がじっとりと、龍麻を包んでいる。 雨が、降るのかもしれない。 かすかに湿った空気に、龍麻は眉を寄せた。 小さく息をつき、辺りを見回す。 人の気配はない。 立ち入り禁止の立て札を無視して、龍麻は旧校舎の中へと入っていった。 それを、遠くから眺める目があることに、龍麻は気づかなかった。 「・・・・・・・・・・」 犬神は龍麻の姿が旧校舎に消えるまで、気配を消したまま眺めていた。 彼の姿が完全に消えてから、犬神は取り出した「しんせい」に火をつけた。独特なキツイ匂いとともに、煙がくすぶる。 ふーっ、と味わうように煙を細く吐きながらも、犬神の目は鋭かった。 「緋勇・・・・・。あいつは・・・やはり」 黄龍の器。 ――時間は再び、動きだす、か・・・・・。 今の犬神は、真神学園の冴えない生物教師ではなかった。 いかに龍麻が周りの氣を探ったとしても、どんよりとした雲の上には満月に近い月が浮かんでいる。気配を完全に消した犬神に気づくはずがなかった。 反対に、犬神の神経は遠く深く冴え渡っている。風にこすれる葉の音さえも耳障りなほどだ。 意識を集中すれば、旧校舎の中を行く龍麻の、息遣いさえ手にとるようだった。 「・・・・・震えているのか、緋勇――?」 可愛いものだと、犬神などは思う。 いくら――犬神の予想が外れていなければ――強力な力を持つ黄龍の器とはいえ、高校3年でしかない。気が遠くなるほど生きてきた犬神にとっては、子犬のようなものだ。 そこで、犬神は苦笑する。 ――黄龍が目覚めれば、ヤツを子犬なんて可愛らしいモノには喩えられんがな。 「・・・・? ――おいおい、大丈夫か・・・・」 緊張に上ずっている、と表現するにはあまりにも龍麻の鼓動が激しい。 息遣いも安定していない。 何かと戦っている様子でもないのに、だ。 「・・・・・・・・・・」 やはり、酷く怯えている。 犬神は少しためらってから、くわえていた「しんせい」の火をもみ消した。 龍麻のあの様子では、旧校舎に出る人外のものたち相手は苦しそうだった。 助けてやる義理はないが。 そう、犬神は思う。 それでも、このまま見捨てるのは後味が悪い。 犬神は旧校舎の方へと歩き出した。 助けてやる義理はないが、と自分がさっき思ったことを思い出して、そして苦笑する。 「・・・・あいつは、真神の生徒だったな・・・・・」 そこで教職をする自分の生徒でもある。 全く義務がないわけではない、か。 犬神の呟きは、夜の闇に消えていった。 やはり、異形の気配がする。 夜の旧校舎を歩きながら、龍麻は辺りを注意していた。 近頃東京を騒がす怪奇事件。それらの背後にある「敵」に近づくために、怪しい所は探らなければならない。 ――大丈夫。 龍麻は、自分に言い聞かせる。 ――大丈夫。 異形のものを知らないわけではない。「龍麻」が戦うのを、彼の背中で見たこともある。 ちゃんと、戦える。 『いいか、「龍麻」。異形の者、<力>ある者と戦う時、ためらってはいけない』 彼に古武術を教えてくれた、鳴滝の声が蘇る。 『君は腕力や純粋な力では、並の人間よりも弱い。――せめてもう少し時間があったのなら、「普通の」武術を多くの門下生と同じほどには鍛えてあげられたのかもしれないが』 龍麻は手甲をはめた。 『だが、君には<力>がある。その力での戦い方を、君はここで体得できたはすだ』 震える手が、手甲をカタカタと小さく鳴らす。 『敵から吹いてくる氣。そして、敵の急所へと吹く氣の流れ。それに身をまかせるのだ。氣を、風を感じて攻撃をかわし、一気に君の氣で相手を貫く。氣の――体力の尽きた時が、君の倒れる時だ。勝負を長引かせてはいけない』 自分の心臓の音が、いやに耳についた。 ガタリ、と背後で音がした。 びくりと龍麻は振り返る。 通常では考えられない巨大な蝙蝠が、龍麻に飛びかかって来る。 「――くっ」 <力>に覚醒してからの龍麻の、動体視力は常人の域を越えていた。 蝙蝠の動きを、スローモーションのように捉える。 ――吹いてくる、「風」。 攻撃の軌道。 それを、龍麻は反射的にかわした。 『ためらってはいけない』 師の声。 「破ァッ!!」 龍麻は、横切ろうとする蝙蝠の胴体を右の拳で突き上げた。 甲高い叫びとともに、蝙蝠の身体は四散する。 バシャリ、と肉片とともに大量の血が龍麻に降り注いだ。 「――っ」 まだ生暖かいそれに、龍麻は胸を押さえた。 異形とはいえ、生き物を自分の意志で殺したのは初めてだった。 先ほどまでのものとは違う恐怖で、ガクガクと、足が震える。 奇声が、聞こえた。 バッと向いた先に、同じような巨大な蝙蝠と、赤い目をして涎を垂らした四足の獣が蠢いていた。 どれもが、龍麻に殺気を放っている。 血で張り付いた髪を、龍麻は振った。 ――何に、今さら慄いている・・・・! 生き物どころか、人さえ殺したこの身で。 鋭い息を吐き、龍麻は異形の群れへと突っ込んだ。 |