天涯比隣


 雁国が偽王討伐のために慶国に親征の軍を出していた。
 荒れた平野を眼下に、丘陵の上で真実の景王と雁国親征軍は陣をひいていた。
 風が背後から、ざあ、と陽子の髪をなぶっていく。
 私の、国。
 特別愛していたわけでもない。けれど、それは今まで確かに日本だった。そして彼女はその国民の一人にすぎなかった。
 しかし今は、この眼前に拡がる国の王だ。
 どこまでも続く、荒れ果てた大地。
 初めて見た時は、ただ呆然とした。
 あまりにも酷すぎて。
 王となって、いったい何から始めればいいのか。どこからこれを建て直すのか。
 この、大地と、そしておそらくそれ以上に荒れている民の暮らしを……。
 だが今は、怖い。この荒れた光景が。
 陽子は無意識に自分の肩を抱いた。
 何か冷たいものが胸の奥に落ちる。痛いほどの冷たさ。
「……景麒……」
 日本にいた時は、あれほど恐ろしく、苛立たしく、理不尽に感じたあの男に、今は切実に会いたいと思う。
 陽子はまだ、景麒のことをよく知らない。それでも、王の半身であるという麒麟にいてほしかった。
 彼が好んでこの場にいないのではないことは分かっているのだが、この風景は一人で見るには寒すぎた。
 ふと、背中に吹きつける風が消える。
 それと同時に、陽子の肩に衣が掛けられた。
「何か見えますかな、景女王」
 陽子は振り返り、背後に立った男を見上げた。
「……延王」
「もうすぐ日が落ちるぞ、陽子。中に入ったらどうだ」
 延王尚隆は陽子に、にっと笑う。
 陽子はどこかで、ほっとした。
 尚隆は優しく、言う。
「……麒麟が恋しいか」
「!」
 陽子は、かすかに視線を外した。
「恋しい、なんて、そんな……。ただ……」
「麒麟と王は半身だからな。いて当然。いなければ不自然な気がするのは当たり前だ」
 尚隆は言って、軽く自らの肩を叩いた。
「突然身体が半分なくなったら、俺でも慌てる。―まあ、本当の身体と違って、こっちの思ってもいない事もするし、いたらいたでうっとおしい時もあるがな」
 尚隆の苦々しい顔に、陽子は思わず吹き出す。延麒六太がここにいたら、こっちの台詞だ、とでも言う所だろう。尚隆は陽子が笑うのを見て、頷いた。
「延王?」
「いや。……さ、陽子。明日も早い。もう天幕に戻ったほうがいい」
「はい」
 陽子は延王に促されて歩きだす。すぐに、二人は陽子の天幕についた。
「では、延王」
 失礼します、と言いかけた陽子は、
「陽子」
 そう呼ばれて、傍らの延王を見上げた。
「はい?」
「……俺はお前の麒麟にはなれんが、力にはなれるぞ?」
 笑みを含んだ声。だが、その目は真摯そのもので。
 そんな延王に、陽子の胸が熱くなる。自分に向けられる優しさと、差し出される手が、切ないほどに嬉しくて、愛しくて、大切だ、と思う。
 まだ陽子にとってそれは恋ではなく、むしろ楽俊と同じ、かけがえのない友を慕う気持ちに近い。
「今も……なって下さっています」
「そうかな」
 腕を組む延王に、陽子はくすりと笑った。
 延王がいなければ、自分の決心とは裏腹に、この荒れた慶国を見渡した時、自分はただ立ち尽くすしかできなかっただろうと思う。景麒を助けるにしろ、そのために自分が何から始めればいいのかも迷っただろう。
 雁国のためもあるのだろうが、こうして陽子のために延王は親征をしてくれている。そして何よりも、延王の存在が陽子の心を救っていた。
 心から、思う。
 陽子は、ふわり、と微笑んだ。
「―貴方が、いてくれてよかった……」
 そして、陽子は軽く頭を下げると、天幕へと消えた。
「…………いかんな」
 尚隆は小さく呟いて、自嘲に近い笑みを浮かべた。
「抱きしめたいかもしれん」
 五百年生きて、それなりに女を愛してきた。だが仙籍に入れるほど入れ込んだ事はなかった。いや、もちろん一人や二人は、仙にして、一緒にいられれば楽しいだろうなと思った相手もいる。
 しかしそれだけだった。そして尚隆は事実上の妃(結婚することは無理だが)を迎えることはなかった。
 ここ百年ほどは、特別に付き合っている女性はいない。
 一つ付け加えておくが、延王尚隆は一度に数人と付き合うようなことはなかった。妓楼遊びの時は、また別だが……。
 尚隆はそして少し考え、軽く笑うと踵を返した。
「まあ、そんなわけはないか」
 あれは王だ。
 今までも別に遊びだったつもりはないが、軽い気持ちで付き合える相手ではない。何も好んで問題の多い恋愛をすることもないだろう。
 陽子を見ていると、その助けになってやりたいとは思う。
 可愛いとも思う。
「だが……それだけだ」
 尚隆はそう、小さく苦笑した。
 王となって五百年。今さら、誰かに本気で惚れるはずもない。
 そう。今さら……。








 刃の打ち合う音が、耳障りに響く。風が、血の匂いを辺りにこもらせないのが唯一の救いか。
「陽子!」
 尚隆は敵を切り捨てつつ、すぐ隣にいたはずの陽子に叫んだ。
「俺から離れるな―と、言っている側から!」
 見れば、陽子はすでに随分と離れた所で一人、剣をふるっている。尚隆は舌打ちすると、急いで騎獣の首を返す。駆けだした延王に、あわてて延王の周りを固める兵が王を追う。
 陽子の背中に敵兵が剣を振り上げたのを見て、尚隆の血の気が引く。
「陽子っ!」
 しかし陽子は、それを余裕でかわし、体勢を崩した敵兵を騎獣から蹴り落とした。尚隆を振り返り、顔色を失っている彼と目があう
「延王……」
「…………」
 尚隆はふいと、視線を外した。
 陽子が助かってよかった。たしかにそう思うのに、この胸のつかえはなんなのだ、と思う。
 陽子はそんな尚隆の背中に、ズキリと胸が痛む。陽子自身気づかなかったが、尚隆を見る目は、ひどく切なかった。そして尚隆はもちろん、その陽子の表情を見てはいなかった。



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