もうすぐ初夏を迎えようという五月の下旬、桜など春の花々はすっかり散ってしまい、新芽が芽吹くようになった。
しかし、である。シルフィスにとっては物足りない日々が続いていた。
「本当によく降りますこと」
「いいかげんにしてよーーーーーって感じねーーーーーー」
「・・・・そうですね」
例の如く、梨壷に集まった三人の姫。昼間だというのに部屋は締め切っていて格子(こうし。碁盤目上の雨戸のようなもの)を上げることもできない。そう、彼女たちの憂うつの原因はたった一つ、雨なのである。
梅雨の季節に入ってしまってからというもの、毎日のように雨が降り続いているのである。最初のうちはまあ、たまにはいいかと部屋でできる遊び、双六、貝合わせなどいわゆる貴族の姫君の遊びもしていたのだが、それもいい加減に飽きてくる。かといって、この天候では外へお忍びというわけにもいかない。せっかくの息抜きの時間なのに、特にすることもなく、つれづれに時間を過ごしていた。
ややあって、姫の女房がやってきた。
「宮様、琴の先生が参られました」
ディアーナはふうっと息をついて、
「・・・・わかりましたわ・・・・・・」
と力なく答えた。
この天候ではさぼっても行くところがない、とあきらめているのだろう。
「そっか、もうそんな時間なんだ。じゃあたしたち戻るね。」
「失礼します、姫。頑張って下さいね」
メイとシルフィスは梨壷を後にした。
「ふう・・・・・・・・」
桐壷に返ってきたシルフィスはため息をついた。
「いつになったら晴れるのかなぁ・・・・・」
そう、雨のせいでここ最近ろくに稽古もできてないのだ。体を動かすのが好きなシルフィスにとってはかなりつらい。それと、もう一つ・・・・・・・・・・
自分に剣を教えてくれている黒髪の殿方。特にいつという約束をしているわけではない。シルフィスが稽古に出られる日は決まってはいないし、彼も毎回来るわけではない。だから稽古を見てもらえるのは時々、でしかない。何度か相手をしてもらっているが、彼は無口でほとんど喋らない。かといって冷たいわけではなく口数は少ないものの構えや刀の振り方、など的確に教えてくれる。シルフィスも余計な事は言わない様にしているため、お互い名前も身分も何も知らない。聞きたいと思うこともあるのだが、そうなると自分も名乗らなければならなくなり、やはり尚侍だと知られるのはまずいだろう。
恐れているのは教えてもらえなくなることなのか、会えなくなることなのか
・・・・・・・・・今のシルフィスにはわからなかった。
そして数日立って水無月(6月)に入った頃、姫の御召しでメイと二人梨壷に参っていたときのこと。
なんだか姫の様子がいつもと違う。まるで何かを待っているように見える。メイの方をちらりと見ると彼女も同じことを考えている様だ。
「どうかされたのですか?姫。」
「何がですの?」
あくまでもおっとりとした調子でディアーナが返す。
「何が、じゃないわよ。なんかそわそわしてるしさ。何があるのかこっちが聞きたいんだけど」
するとディアーナは少し焦った様子で
「べ、べ、別に何もありませんわよ。ええ、ほんとに」
すると、衣擦れの音がして女房がやってきた。
「申し上げます。間もなく東宮様がこちらへ御渡りになられます」
「えっ!!」メイと二人で顔を見合わせる。
「わかりましたわ。」
ディアーナは何事もなかったかのように返事をすると女房は退がっていった。
「ちょっとディアーナ、どういうことよ???」
「東宮様におめもじするなんて、聞いていませんけれど?」
メイとシルフィス二人でディアーナに詰め寄る。
「あら、言いませんでしたかしら?二刻ほど前に御兄様からご機嫌伺いにこちらへいらっしゃるって先触れ(さきぶれ。訪問前の確認。通常女房が来る)が参りましたの。」
ディアーナは涼しい顔で平然と言う。
「聞いてないわよ。聞いてたらとっくに戻ってるわ。堅苦しいの嫌なんだから」
「私も・・・・・・・東宮様にお目見えするなんて恐れ多くて・・・・」
「いいじゃありませんの。二人ともわたくしの大切な御友達なのですから御兄様にも紹介したいですし」
「ディアーナ・・・・・・・あんた、はめたわね」
「何のことですかしら?」
あくまでディアーナは楽しそうだ。
「でももう戻る時間もないですよね」
「今からじゃ無理ね、うううーーー仕方ないか。」
二人の友人はあきらめたようだった。
「久しぶりだね、ご機嫌いかがかな、二の宮」
「ごきげんよう、御兄様」
ややあって東宮様が入ってこられた。もちろん東宮様が一番身分が高いので一番上座で、ディアーナが下座に移り、シルフィスとメイは御簾の外に控えることになる。とりあえずシルフィスとメイは深々と頭を下げて東宮が座するのを待つ。薫物、衣装どれも見事で格調高く、気品にあふれている。やんごとない身分の方はやはり違うのだ、とシルフィスは思った。東宮様が座ると同時にディアーナが口を開いた。
「ふふふ、御兄様。今日はわたくしのお友達を呼んでいますのよ。
御兄様に紹介したいと思いましたの。」
東宮様は、ああ、と言って
「例の尚侍と典侍だね?そこにいる二人がそうかい?」
「ええ、そうですわ。」
思わず身を固くしてしまう。
「右側にいるのが尚侍、左にいるのが典侍ですわ。」
とりあえず挨拶をしなければ、と思いシルフィスは少し顔を上げて言った。
「お初にお目にかかります。大納言が娘シルフィス、現在は尚侍
の位を頂いております。東宮様にはご健勝のほどまことに喜ばしく存じます」
東宮様は水色の髪と、姫によく似た紫紺の瞳をしていらっしゃる。姫よりは怜悧で聡明な感じを受ける。確か御名前はセイリオスとおっしゃるそうだ。
「典侍、参議が娘メイです。どうぞよろしく」
メイにしては丁寧な物言いなのだが、ディアーナは慌てて口をはさんだ。
「メイ・・・・・御兄様にそんな口上を・・・・」
「だって知ってるんでしょ?あたしの噂は。」
メイは顔を上げて東宮様をまっすぐに見て言った。
東宮様はくっくっと笑って、
「ああ、聞いているよ。本当なんだね。ここまではっきりしてるとかえって嫌みがなくていい」
東宮様は脇息(肘置きみたいなもの)にもたれかかられた後二人に向かってこうおっしゃった。
「君たちがきてくれたおかげでディアーナも元気になったし、後宮での生活を楽しんでいる。本当に感謝しているよ」
「もったいないお言葉でございます。」
「ううん、あたしもディアーナといて楽しいもの。」
二人の対照的な言葉使いに一同笑わずにいられなかった。
「そうだな・・・・・ついでに近衛の者も紹介しよう。レオニス」
東宮様は扇をパチンと鳴らして、渡殿に呼びかける。
「はっ」
「入れ」
「失礼致します」
するとすっと音もなく一人の殿方が入りシルフィス達の後ろで頭を下げた。
(え・・・・・・この声・・・・・・まさか・・・・・)
シルフィスからはこの殿方の姿は全く見えなかった。
だが、似ている。自分の剣の師に。「レオニス、そちらの二人は尚侍と典侍だ。二の宮の遊び相手をしてもらっている。彼はレオニス、近衛中将だ。彼は剣の腕ではこの都一ではないかと言われている。」
「恐れ多いことでございます」
レオニスは東宮様に深深と頭を下げた。
挨拶をすべく、シルフィスとメイは殿方に向き合う。
(やっぱり・・・・・・・!!)
そこに居たのは紛れもなく剣を教えてくれている彼の人であった。向こうも驚いたのか一瞬目を見開いたがすぐに、普通の表情に戻っていた。
「尚侍、シルフィスでございます。御見知り置きくださいませ」
シルフィスは頭を下げた。挨拶の声が少し震える。自分の身分を知った彼はどう思うだろうか。彼はシルフィスに向き合い
「近衛中将、レオニスと申します。」
彼の声に特に感情は見受けられない。だが仮にも尚侍の役目をもらっている女人が夜にあのようなことをしている、というのははっきりいって非常識だ。そんな自分に彼はもう会ってくれないかもしれない。そう思うと胸がきゅっと苦しくなった。
その日の戌の刻。シルフィスはいつもの稽古場へ向かった。梅雨もようやく終わりかけて今夜は月が顔を見せていた。今日はあの方の名前と身分を知ることができた。でも彼の方は自分のことをどう思ったのだろう。刀を振るう尚侍など聞いたこともないし、もうここへは来てくれないのかもしれない、そうなったら・・・・・・・・・・
そう考えるとシルフィスはとても悲しくなった。なぜなのかはわからないがあの方に見放されるのはとても悲しかった。
辺りを見回すが、そこには誰もいない。あの方が自分をどう思ったのか、それだけが気がかりで稽古をする気にはなれず、大木の下に座り込んでぼんやりと月を眺めていた。
(この香は・・・・・)
忘れるはずもない。何度も相手をしてもらっているのだ。
振り向くとあの方がこちらを見ていた。
「あ、あの・・・・・・・」
口からとっさに出たものの、何を言ったらいいのかシルフィスにはわからなかった。しばしの沈黙が二人の間に流れる。
「まさか、尚侍だとは思いもしませんでしたが」
その言葉にシルフィスは頭を下げた。
「・・・・・申し訳ありません。言い出せなくて・・・・」
彼がどういう表情をしているのか、恐くて顔をあげられない。彼は「いえ」と一言言うと、月を見上げた。
「あの日・・・・・・・・あなたは懸命に稽古に励んでいた。その時の瞳・・・・まっすぐな瞳をしていた。」
そういって彼はシルフィスの方を見た。
「決して人を殺めるためではない、純粋な気持ちを感じたから私はあなたに稽古を付けました。身分にふさわしくない行動ではありますが、理由があるのでしょう」
シルフィスは嬉しかった。そしてその思慮深さに感謝もした。
だけど・・・・・・・・何かが違う。
「もう夜も遅い。お送り致します」
彼はそういうとシルフィスを連れて帰ろうとした。
「・・・・待って下さい・・・・・」
動こうともしないシルフィスの声にレオニスは振り返った。
「何か?」
「お願いです・・・・・・・・せめて夜だけは私を今まで通りに扱っていただけませんか?あなたの弟子として・・・・・・」
「しかし・・・・・・」
レオニスは困惑した表情をした。
「あなたに初めて会ったとき・・・・・私に身分はありませんでした。もともと身分のない状態で出会った私達です。それに尚侍の位は姫様のために頂いた位です。私自身にそんな価値はありません。」
シルフィスは必死になって一言一言言い募る。
レオニスはそんな彼女を見ていると自分がひどいことをしている様に思えてきた。彼女は剣を教えて欲しいと言ってるだけではないか。身分で扱いを変えてほしくないと。そのくらいのことで彼女を悲しませたくはないと思った。
「わかった」
レオニスは少しだけ微笑んだ。
「だが、今日はもう戻ろう。私もまだ仕事があるのでな。」
「は、はい。では今宵はこれで・・・・・・・」
「ああ」
そうして、いつも通りに別れてシルフィスは自分の部屋へと戻る。
近衛中将、レオニス様・・・・・・・・・少しあの方の近くに歩めたような気がした。自分を普通に扱ってくれた。それだけで嬉しいシルフィスだった。