隔週連載 公開日誌
“鉄槌よ、語れ! ?”
                    詩人 海老 正広
















愛国心教育は可能か
国家の品格

金持ち父さんの話
ホリエモン事件
年頭の言葉
向う三軒偽装マンション
私の美男子論
国連安保理の正体
熱く語れ貴乃花
郵政解散の本質
尼崎脱線事故
ホリエモン論
青色発光ダイオード
本日は即興劇を

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村上春樹の新作
大統領選・その愛
ゴー、ナベツネ
恐るべき子供たち
素晴らしき「自己責任」
地獄の表示録
表現の自由と商業主義主義「ついに最終回」
女性の敵」
「渡る世間はノーフューチャー」
^「バカの壁ネイキッド」
「現代の悪魔を論ず」
「国連の黄昏」
「平和の理念と現実」
「米国を孤立させるな」
「インディペンデンスデイ」
「新編いろは歌留多」
「正義は売り物か

「ニューヨーク紀行」
「夜このパンセ」
「友愛の裏側」
もう一つの国民の歴史」
「現代的犯罪について」
「ポピュリズムとは何か」
「小沢一郎小論」
「日本よ、汝自身を知れ」
「カナリヤの悲鳴」
「私の国語教室」
「女は世界の奴隷か」「絶望への復帰」
「曲解『論語』集」
「小林よしのり氏への手紙」「室内楽のパンセ」
「米百俵の経済を語る」
「第三の旗をたてよ」
小説のエロース」
「タンギー爺さん」
「偽善のススメ」
「八月十五日」
「教科書問題の本質」
真紀子待望論を駁す」
なぜ殺人はいけないか」
「脱ゴーマニズム宣言」
「 森続投を訴う」
「新編いろは歌留多」
「 ジョン・レノンは聖人か、
悪人か」
「言葉、言葉、言葉」
「 債権放棄の鼠穴」
「 運命のプロトコル」
「 神の国」
「葉」
「 『国民の歴史』を読む」
「私の見た田中角栄」
「エリートの敗退?」
「茶髪ピアスと国際政治」






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愛国心教育は可能か  

イラク戦争勃発直後のことだった。経営コンサルタントのS氏との会話のなかで、どちらにしても日本は米国に追随せざるをえないだろうという点で意見の一致をみたのだが、さらに彼は、日本がアメリカの五十一番目の州になる可能性について語った。

私たち以下の世代で世論調査をすれば、この「吸収合併」は承認されるだろうし、たぶん自分の妻もOKするにちがいないとS氏は主張した。
「アメリカ人になった方が、かっこいいと思うんじゃないかな」

自分の立場は留保しているところが、いかにもコンサルタントらしいのだが、それはそれとして、彼の見方をかならずしもでたらめな主張だと笑えないのが、いまの日本の現状なのかもしれない。若者の大半は、尖閣列島も竹島も、無理して確保することはないというだろう。

与党が教育基本法の改正に愛国心教育をもりこもうとするのは、そうした国家意識の低下にたいする危機感のあらわれであるといえよう。いっぽう、愛国心教育は戦争に道を通じる危険な政策であるという批判も依然として根強い。こちらは、国家意識の低下をむしろ歓迎している。

藤原正彦氏は『国家の品格』の中で、愛国心には二つの異質な要素が含まれているという。一つは穏健な「祖国愛」であり、もう一つは「ナショナリズム」という自己中心的な「不潔な思想」である。つまり、政府は前者を奨励し、文化人や日教組は後者を危険視しているわけである。

しかし私にいわせれば、どちらも方向こそ違うが、やっていることは同じだ。愛国心というものを意識上の操作で二つに分けて、片方を拡大し、そのことによってもう一方を抑えこもうというのである。だが、そんなに万事都合よくはいかぬ。なぜならば、これら二つの要素は無意識の領域でつながっている。というより、それらは同じ物の二つの面にすぎない。愛国心とは国家意識であり、さらにいえば集団的エゴイズムのことにほかならない。だから悪いというのではない、それが生の現実なのである。

政府も文化人も、無意識の領域を無視し、あるいは無力化しようとしている。ところが、そういうやり方はかならず無意識の反逆にあう。早い話が、竹島では笑っていられても、対馬をとられ、九州に上陸ということになって、それでも祖国愛はナショナリズムに転化せずにすませられるであろうか。世論は狂信的な熱狂に覆われるのではないか。

そうした危機にあたって冷静でいられるためには、愛国心という無意識の情念を忌避したり奨励したりするのではなく、日ごろから飼いならしておく必要がある。いたずらにエゴイズムを否定し、自らの利益の主張を「不潔な思想」などと考えてはならない。おおいに自己主張しながら、同時に相手の利益も最大限に尊重する道をさがせばいい。観点を変えていえば、意識と無意識のバランスをとるのである。

愛国心は直接的に教育できるものではない。なぜなら、それらは無意識の領域に属するものであり、そこでは信頼のみが伝達の手段なのだ。


「国家の品格」と武士道

ベストセラー、藤原正彦著『国家の品格』を読んでみた。

まずいえることは、これは論争の書であるということだ。近代的な価値、そしてその帰結としてのグローバリズムにたいする疑問が中核をなしている。そこから、教育問題を中心として、現代日本批判が展開される。

ちょうど内田樹という哲学教授の反論が朝日新聞にでていた。かれは、部分的には同意できるとしながらも、「国家の品格」は外部評価によって成立するものであり、著者の主張する武士道の復興などではなく、「外から見てフェアな国」になることこそが必要なのだ、と本書を否定する。

一見説得力のある批判だが、実のところ、これで本当に哲学を教えているのかと、わが目を疑った。この人の説に従えば、人目をもっとも気にする人が、品格ある人ということになる。そんな品格が贋物であるのは自明の理だ。

そもそも万人にたいして「フェア」であることは不可能である。たとえば、イラク紛争でどういう行動をとれば、日本は「フェア」であるのか。いかなる選択もどこからか「アンフェア」の謗りをうけるだろう。何もしないのが得策にも思えるが、それこそが湾岸戦争の時の日本の立場であり、自ら手を汚そうとしないと、国際社会から厳しい批判を受けたのである。

人間が正しい行動をとろうとする時、外部評価を最重要視するなら、その行動は他動的であり、糸の切れた凧のようなものにならざるをえない。これほど品格と無縁な態度もあるまい。しかしこれこそ、いまの日本の姿ではないか。

なんぴとも正しくあらんと欲する。が、完璧を期していては、永遠に行動にでていけない。どこかで決断をくだすほかない。その場合、自立した個人であるならば、決断の基準は、外部ではなくあくまで自己の内部にある。
その基準として、日本古来の武士道を参照すべきであるというのが、藤原氏の主張にほかならない。さらに武士道の根幹は「惻隠の情」であるという。弱者への思いやりと共感の涙。これを世界に発信することで、「国家の品格」は高まるというのが、本書の提言である。それはそれで、いい。

がしかし、武士道とは本来、戦士の思想だ。惻隠の情はけっして根幹などではない。惻隠の情を支えるのは、強者たらんとする自己への矜持である。しかもこの行動原理を究極で保証するものは、君主への忠義という絶対的なルールなのだ。はたして、それをも受容する覚悟はあるのか。いずれにしても、こういう本質的な問題を避けて通る以上、藤原氏のいう伝統や祖国愛は、そして武士道は、耐震強度偽装マンションのような脆い観念にすぎない。

読後の感想を一言でいえば、国家の品格を論じるにしては品格に欠けた文章であるというものだった。

金持ち父さんの話を聞いた

さいきん、投資の勧誘がのべつやってくる。といっても、たいていは電話かダイレクトメールである。新規公開株を買えとか、投資組合に参加しないかなど、いろいろ。
 私は「清貧」な暮らしをしているが、結果的にそうなっているだけで、べつにそういう主義をつらぬいているわけではけっしてない。できたら「金持ち父さん」になりたいとつねづね考えている。だから、うまい投資の話があるといわれれば、いささか心がうごく。

だがしかし、私のような「清貧」な者に、そんなうまい話なんてくるわけがない、と判断するくらいの最低限の常識はわきまえている。一攫千金の功をあせれば、どこかの議員みたいに詐欺師に踊らされて、てひどい損害に泣くことになる。

有利な投資情報を手に入れるには、それなりのたゆまぬ努力が必要なはずで、棚からボタモチということはありえない。それゆえ、私の私家版教訓集には次のように、ある。

「棚からボタモチ、盗まれた」

さて先日、宇部商工会議所の会員大会で、原丈人という人のたいへんに面白い講演を聞いた。この人は欧米を中心に活躍する投資家なのだが、いわゆる虚業家とは一線を画する。むしろ、ソロスや村上ファンドのようなヘッジファンドにたいする痛烈な批判者である。

というのも、彼自身、米国で光ファイバー関連の企業を立ち上げるところからはじめた実業家なのだ。したがって、投資というものは、人々の生活をよくするものを研究開発し、製品化しようとする企業の育成こそが、その存在意義であって、株式の時価総額を増やして利ざやをかせぐようなことは、あるべき経済活動を阻害し歪めるだけだという信念をもっている。

いっぽう、村上ファンドの村上世彰氏は、自分たちが株主になることで旧態依然とした経営体質を改善し、その結果、時価総額を上げることができ、配当もふやせるといっていた。

新たな製品を送り出すには時間と金がかかる。時価総額を上げることに主眼をおけば、そんな手のかかることをするより、有力なヘッジファンドに株を買ってもらったほうが、他の資金も流れ込んで手っ取り早く株価は上がる。あるいはホリエモンのように、メディア受けする話題をつねに提供して期待感をあたえることで人気株に仕立て、効率よく稼ぐということがおこなわれる。

「だがこれでは、良質な製品やサービスを提供するという企業の本分は脇におかれることになってしまいます」

さらに悪いことには、ハゲタカファンドは企業の内部留保に着目し、株主となって極端な増配をもとめる。その結果、蓄積した資金を奪われた企業は、研究開発や経営改革といった次代への投資がじゅうぶんにできず、やがて競争力を失い疲弊してゆくことになる。

こうした原氏の分析は、現在の世界経済の状況をするどく射抜いている。ライブドア事件後の私たちには、いちいち納得の行く指摘ではないだろうか。金で金をふやすことにたけた連中が現代の英雄となり、地道にものづくりに打ち込む努力は軽視されるのが、いまの風潮だ。彼のいうように、時価総額主義の弊害で、製品化されるまで何の利益を生まぬ研究開発にたいする投資を敬遠する傾向が蔓延しはじめているとすれば、憂慮すべき危機であろう。
 それゆえ、リスクを負って新たな産業を育て上げる投資こそがいま必要だ、と彼は訴える。

 そう、彼は理想家なのだ。その彼がいまもっとも入れ込んでいる投資は、「PUC」の研究開発らしい。私も初めて聞く言葉で驚いたのだが、使っていることを感じさせない(パーベイシブ)で、どこにも偏在し使える(ユビキタスな)通信(コミュニケーション)の道具と、定義されている。
 つまり、いまの使いづらいパソコンの次に来るものということらしい。私の貧しい知識で推定すると、アップルのiPodをいちじるしく機能拡張したようなものと、想像される。それが実現すれば、私たちの生活が豊かになることは疑いない。
 のみならず原氏は、そのベンチャーをバングラデシュなど最後尾の開発途上国で立ち上げて、少しでも南北格差の軽減に寄与したいともいっていた。

原氏がいかに理想家であるか、これで解っていただけたであろうか。しかも忘れてはならないことは、その反面で、彼は投資家として比類のない成功をおさめているということである。

私は同じ日本人に、このような人物が存在することに驚嘆するとともに、畏敬の念を抱いた。彼こそ、本物の「金持ち父さん」ではないだろうか。



ホリエモン、マットに沈む                             

今回は「靖国参拝問題における人間の研究」という題で書く予定だったのだが、リクエストが多いので、ホリエモン問題を論じることにする。
 しかし、このところ世間は、このライブドア事件でもちきりであり、さまざまな評論家が語り尽くしている観がある。しかもリクエストは「私らしい観点で」ということなので、なおさらむつかしい。まあしかし、なんとかやってみよう。

 ところで、ジョージ・フォアマンとモハメッド・アリの世紀の一戦をご存知だろうか。ザイールの首都キンシャサで行われたこのヘビー級タイトルマッチにおいて、引退同然のアリが若きチャンピオンに挑戦した。下馬評では、フォアマン絶対有利。なぜなら、ロートルのアリにたいして、フォアマンは若いだけでなく、稀代のハードパンチャーで、史上最強のチャンピオンといわれていた。四〇戦四〇勝四〇KOという驚異の戦績だった。

アリはいつものように、

「マットに倒れこんで血をなめるのは、やつの方だ!」
 と、強がっていたが、おそらく勝算なんかなかったと思う。

試合がはじまるとすぐに、アリはロープ際に追い込まれ、フォアマンが一方的に打ちまくった。アリはロープを背にガードを固め、ときには大きくもたれるようにして、フォアマンのものすごいパンチの嵐にたえる。蝶のように舞う華麗なフットワークは封じられ、ほとんど打ちかえすこともできない。誰もが、アリのノックアウトで試合は終了すると思った。

だが、アリは必死に堪えつづけた。三、四、五、六回。あいかわらずアリはロープ際でガードを固める。さすがのフォアマンにも疲れの色がみえる。七回を迎えたところで、アリが猛然と反撃。八回で、ついにアリはフォアマンをノックアウトした。打ち疲れ、ガードの下がったフォアマンには、アリの、蜂のように刺す的確なパンチをかわすことはできなかったのである。

実際、わが眼をうたがうような見事な逆転劇だった。初のKO負けを喫したこの試合を最後に、フォアマンは引退して牧師となる。

さて、この試合、今回のライブドア事件とそっくりではないか。

ホリエモン一派は、上場以来、強烈なパンチ力にものをいわせて会社を拡大してきた。連戦連勝。プロ野球参入、総選挙に出馬、フジテレビの乗っ取りと、ハードパンチを次々に繰り出し、旧体制のオジサンたちはたじたじ。ガードを固めるのが精一杯であった。かくて、新世代の旗手ともてはやされたのである。

とはいえ、株価を巧妙に操作し、ルールや慣習を無視した破格の攻撃力を保持するいっぽう、残念ながらガードは甘かった。総資産七千億円を超える企業に成長したにもかかわらず、その意思決定プロセスをみると、大学のサークルとたいしてかわらぬイージーなものだ。固定した数人のメンバーが経営の全部を牛耳るという、個人的な関係によりかかった運営であるために、チェック機能がなく、暴走に歯止めがかからなかった。

はじめは、情報操作や利益の付け替え、損失の飛ばしなどもささやかなものであったろうが、急激な膨張にともない、不正も大胆かつ悪質なものとなっていったのだろう。ホリエモン氏は、俺ほどの賢い男がやることを、旧世代のオヤジなんかに捕捉されるわけはないと、たかをくくっていた。しかも、さすがのハードパンチャーも打ち疲れか、最近のM&Aの実績をみると首をかしげたくなるような無軌道な買収がめだつ。そこに、隙ができた。
 ガードが下がったところに、クロスカウンター一閃。あわれ、ホリエモンはノックアウト負けを喫した。

世界チャンピオンの夢に挫折したホリエモン。ふたたび泪橋を逆に渡ることができるのだろうか。それとも、フォアマンよろしく、リングから身を引いて聖職者になるか。いやそれよりも、占い師がいい。「ライブドアの株価は五倍になる」とのたまった細木ナントカという占い師は、検察に「風説の流布」で起訴されることもなく、あいもかわらず巷間に俗悪な説法をばらまいて、のうのうと金を稼いでいるではないか。

「年頭の言葉」

世界の夜明けを遠望して


昨年もいろんなことがあった。JRの脱線事故、楽天など新興資本による企業買収事件、プロ野球のストライキ、耐震構造偽装ビル問題などなど。それから、幼児や老人など、社会的弱者を標的にした暴力や犯罪の連鎖も、ますます広がりをみせている。

おもうに時代は、日本史上では幕末以来の「戦国時代」に突入しているようだ。いわばこれは、「経済的戦国時代」とでもいうべきもので、むろん、それは全地球的な規模の闘争である。戦士たちは、ひたすら経済効率の追求にしのぎを削る。つまるところ、世界が狭くなったのだ。

マルクスの説によれば、高度資本主義のあとに共産主義社会が到来することになっているが、本当にやってきたのは「高度拝金主義社会」だったというわけである。

価値の多様化なんていわれているが、そんなのは見せかけで、実際には、金本位の価値一元化が進行している。それゆえ、現代の偉人は「ヒルズ族」であり、「セレブ」である。お金で買えないものなんてあるんですかね、というホリエモン氏の言葉ほど、いまの世相を反映したものはない。森羅万象が、愛や友情など、理想と名のつくものも含めて、すべてお金に換算される。

かくいう私も経営者の端くれとして、数字に追われる毎日を過ごしている。お金は大事だよ、ということはアヒルにいわれなくても身にしみて知っているつもりだ。ホリエモンや村上ファンドの主張する金本位の正義にはけっして同意できないが、それにもかかわらず、そうした正義の前で、あらゆる権威が地に墜ちるのをいく度も眼のあたりにしてきた。

しかしそれでいい。金の魔力の前で無力と化すような理想は、およそ理想の名に値しない。それは偽装マンションならぬ、偽装された理想であり正義である。私たちは嘆く必要など毛頭ないのだ。そして、ほかならぬこの混沌とした非情な闘争の日々の中からこそ、真の理想は育ってくる。拝金主義など恐れるにたらぬ。夜の暗黒のうちに夜明けは用意されているのだ。何時の日か、理想の旗が、ふたたび高く掲げられるであろう。

私はその日を楽しみに、戦国の世を生き抜こうと思う。


向こう三軒偽装マンション

                             

私の店では、さいきん折箱を新しいタイプの漆ふうのものに替えた。そうしたところが、どういうわけか、いつも蓋が足りなくなる。だんだん、あまった本体が増えてきてどうしようもない。蓋のない折箱なんて、まったく使い道がないのだ。

うちに納入している折屋に苦情をいったら、蓋の足りないはずはない、という。従業員がなにかに転用しているのかと疑ってみたが、これまたくちぐちに、そんなことはないという。

この時点で、ピンときた。私の灰色の脳細胞が、ある仮説を提示したのである。
そこで、もう一度、折屋をよんで、君のところにある在庫を全部点検してみてもらいたい、といった。思ったとおり、折屋は製造業者のつくった十個入りのパッケージを、そのまま右から左に納入しているだけで、いちいち検品などしていなかった。

その結果、十個入りのパッケージに蓋は八枚ずつしか入っていないということがわかった。折屋はふしぎそうにしていたが、私は自分の推理の正しさに確信をもった。

たぶん、この折箱の製造業者は、はじめから蓋を八枚しか入れていないのである。本体のほうは十個そろってないと一目瞭然だが、蓋は重なっているので、数えないかぎり何枚だかわからない。単価の高い折箱なんで、間引いたぶん、けっこう利益がでる。むろん、たまに苦情はくるが、そのときは次回の納品時に二枚よぶんに入れておけばいい。損はない。うまくいけば、次回の注文もとれる。苦情がなければ、丸儲けだ。そもそも、ばら売りするような折屋なら、二枚くらい蓋がなくても、うやむやになる場合が多いと考えられる。蓋の足りない数だけ注文数はどんどん増える。そこにつけこんでいるわけだ。いわば、これは「偽装商品」である。

どうしてこういう推理をするかといえば、私はここのところ、やや遅きに失した感はあるが、いままでしたことのない経営の勉強をはじめ、有名講師やコンサルタントの講義をたくさん聞いた。そのうち、いま売れている講師の話は、つまるところ「偽装のススメ」であることが多い。

あるカリスマ飲食コンサルタントのセミナーに参加したときの話である。かれは、開口一番、粗利七割(!)の主力商品を開発せよ、といった。それから、それを実現するために、お客さんにわからぬように既製品を活用する方法とか、調理の工程を省く方法とか、そういう「偽装」の手練手管をもったいぶって教示する。私は腹を立てて、途中で席を立ったのだが、いま考えると、最後まで聞いておけばよかった。

こういう調子なんで、あいかわらず私は貧乏からぬけだせないのだが、それはそれとして、偽装商品を売る連中の背後には、そうした経済効率至上主義の思想があり、その唱導者がいる。かれらの定義によれば、いいお客とは、だまされやすい人びとのことである。もっとも、あらゆるコンサルタントがそういう手合いだといっているのではない。類は友を呼ぶのたとえ、悪徳コンサルタントの下には悪徳業者が集まるということだ。いずれにしても、こうした偽装商法が日常に蔓延していると考えたほうがいい。

今回の偽装マンションの件では、典型的な「安物買いの銭失い」であり、買い手にも責任があると、したり顔で評する人がいる。だが実際には、うちの折箱のように、安物ではなく、付加価値のある商品であっても、鉄筋を抜いた偽装が横行しているというのが、いまのご時世なのだ。まして、公的機関の審査をパスしているものについて、一般消費者がその偽装を見抜くというのは至難の業ではないだろうか。

そういえば国会中継で、偽装三兄弟の証人喚問を見たが、与党の追及は、民主党議員よりも明らかに手ぬるい。総研の内河証人など、余裕の薄笑いさえうかべていた。これも隣組を大切にする保守主義のあらわれかなともおもうが、いっぽうでは、増税論議のさかんな今日この頃、小泉構造改革も鉄筋の抜かれた「偽装改革」ということもありうる。私もいささか心配になった。


悪魔と民主主義の微妙な関係

                                   

前回、阪神岡田監督を名監督だとほめたとたん、日本シリーズは無残な敗北となった。一ヶ月の空白期間という不利な条件を差し引いても、完敗というしかない。おもうに岡田監督は、短期決戦にもかかわらず、シーズン中と同じ戦術に終始し、臨機応変ということがなかった。やはり、S田さんのいうように、

「岡田は二軍監督の気分が抜けきってない」

というほかはない。さすがに気合の入った阪神ファンの批評眼には寸分の狂いもなく、私は脱帽し、自身の不明を恥じる次第である。真の名監督になるべく、来期の再起を期待したい。

さて、今日の本題。先日、下関の日韓高速船をめぐる訴訟で、最高裁は住民側逆転敗訴の判決を下した。

そもそもこの裁判は、わずか一年で破綻した第三セクター「日韓高速船」の損失を、当時の亀田市長が下関市の補助金から支出したことが、発端である。これは違法行為であると、亀田元市長に賠償をもとめた住民訴訟がおこされた。今回問題になっている八億円以外にも、市は十八億円を融資し、ほぼ全額が回収不能におちいっている。

一審では全額賠償の判決、二審でも元市長の敗訴。そして、今回の逆転勝訴。意外な判決だったようだ。

事実、有識者の解説を読むと、「赤字生む背景を軽視」とか「時代に逆行」といった言葉がならび、いずれも最高裁の判決に疑問を呈している。行政が事業に失敗しても、どんどん税金を投入すればいいという話になりかねない。市長に責任がないなら、誰に責任があるのか、というわけである。たしかに、一理ある意見だ。原告の憤懣やるかたない怒りも理解できる。

しかしながら、私としては最高裁の「良識」を支持する。というのも最高裁は、議会の承認がある以上、裁量権の逸脱と断定することはできないといっているのであり、べつに元市長の「失政」を支持しているわけではない。これは、法の番人として妥当な態度だと私はおもう。

むろん日韓高速船事業は、いかにも無謀であり、失政であるといわざるをえないが、しかしだからといって、市長個人に賠償させるというのは、いささか理不尽な話ではないか。いやしくも法治国家である以上、いかなる悪人もリンチにかけてはならぬ。

それでは、誰が責任をとるのか。結論からいえば、そういう市長や議会を承認した市民が責任をとるほかないのである。民主主義とはそういうものだ。

見通しの甘い三セクの破綻は全国に点在し、訴訟に発展した事例も少なくない。いずれも「お上」の責任を追及したものだが、そういう市長や議会を信任した市民にこそ、私はむしろ反省をもとめたい。民主主義とは、われわれ市民一人一人の自立した判断というものを基礎においた制度なのだ。その最たるものが選挙であり、そこで選出された首長や議会の政策上の失敗は、ルール違反のないかぎり、市民が責めを負うほかないのである。「お上」という意識をぬぐうことこそ、これからのよりよき市民社会実現への第一歩である。

どこかの都市で、市民オンブズマンの人たちが、県警の報奨金(捜査にたいする協力者・情報提供者への返礼金)の中身を開示するよう訴えていたが、これもまたいきすぎだと私はおもう。たしかに帳簿上不透明な支出があるかもしれないが、そんなことをしたら、警察に協力するものは誰もいなくなるだろう。

同様に、みずからの失敗に賠償責任が生ずるとしたら、首長も議会も、いちばんの安全策は、問題の先送りということになる。そうなれば、これほどの不利益はない。民間のできないことを行政はやるわけで、基本的にすべての事業は赤字体質を抱えているのだから、そのへんのことは考慮すべきであろう。

「正義」を追求するのはいいし、情報は公開されるべきだとおもうが、それもいきすぎると、法や制度そのものの破壊にいきつく。それでは元も子もない。

トマス・ベケットのいうように、法や制度というのは森の木々のようなものだ。悪魔を追い詰めるために、邪魔になる木々を切り倒してしまったら、悪魔がふりむいてこちらに向かってきたとき、私たちの身をかくす場所はどこにもないのである。


私の美男論―岡田阪神と村上ファンド

                             

 私はべつに、阪神ファンではない。それでも今年は、オールスターを終わった時点で、優勝は阪神だと確信した。

 ところが、私が生まれる前から阪神一筋というS田さんは、私の予言を否定して、「岡田はアホ」だから優勝はないと断言された。

 優勝が決ってもなお、なぜか岡田監督の評価は低い。作家でトラキチの後藤正治氏さえ、優勝に寄せた文章のうちに、

「岡田監督、名将か凡将か、いまひとつ不明である」

と、書いている。

私は阪神がかなりの確率で優勝すると予見した。なぜなら、世人の評価とちがって、岡田監督は名将であると信ずるからである。

というのも、かれの構築したシステムは、ほかのどのセリーグ監督のものよりもすぐれている。昨年優勝の落合監督よりも、である。それは試合ごとの作戦以前の、まったく新しいオリジナルな戦略モデルの提示である。それは星野阪神の根性野球とはちがう、常勝可能なチームへの進化を意味している。

岡田監督は、去年の失敗の上に、今期の最初から明確なプランを用意した。まず今岡をサードにコンバートし、シーツを一塁にもっていった。ショートの鳥谷とともに、鉄壁の守備を構築。しかもこれは打順の組替えと連動していて、本来1番や3番を打っていた今岡を5番とすることで、攻守ともに中軸としての存在感をもたせた。勝負づよい今岡の前に、長打力があり、フォアボールが多く出塁率の高い金本をおくことで、得点は確実にふえる。うしろに今岡がひかえていることで、金本の敬遠も阻止できる。結果として、二人で二六〇打点をこえた。

そしてJFK。中継ぎ・抑えという従来の概念を否定して、一試合に三人のキャラクターのちがうストッパーをならべてみせた。六回までリードしていれば、勝率九割。これも、シーズン当初からの戦略モデルである。新人投手が多いことから考えられたものだと思うが、井川をはじめ先発陣の不調や、ベテラン下柳の活躍をささえたのは、なんといってもこの継投モデルにある。

とにかく、岡田監督はどの選手にも明確な役割をあたえ、この一年、マンネリ采配という批判のなか、選手を信じてみずからのシステムを守りつづけた。「背信」といわれた井川にしても、一度は二軍に落としながらも、最後まで「うちのエースは井川や」といいつづけたのである。

それぞれの選手が、自分の役割を十二分にはたしてなしとげた今期阪神の優勝は、選手ばかりにスポットがあたるが、その明確な役割分担を決定し、維持しつづけた岡田監督こそ、じつは最大の功労者なのだ。

にもかかわらず、こんなに無能あつかいされている。かんがみるに、こういう低い評価の原因は、ひとえにかれの顔にある。藤山寛美似のとぼけた容姿ゆえに、岡田アホ説が巷間に蔓延したのであろう。

今回ナベツネ氏の「人事異動」で巨人にもどってきた原監督は、私のみるところ、凡将である。記者会見でも、長嶋ゆずりの意味不明な言語で、内容のない決意表明していた。しかしながら、巨人ファンの諸氏はこぞってかれの復帰を待望する。かれは岡田とちがってハンサムだから、頼もしい救世主とうつるのだろう。そう考えるほかに、理由はみつからない。

かように世間とは不公平なものである。

ところで、先日、林芳正参議院議員と、柳屋芳雄氏と、いま話題の村上ファンドの村上世彰氏の三人による、異色のパネル・ディスカッションにでかけた。

柳屋さんは、むろん宇部を代表する伊達男であるが、それにひきかえ、生で見る村上氏は、目のくりくりした小さい人で、黙っていると腹話術の人形のようだ。ところが、ひとたび口をひらけば、予想外に熱い人で、みずから抱懐する理想を力強く語った。かれは、株式市場におけるかれ自身の行動によって、日本の企業や行政の前近代的な体質を変革するつもりらしい。

阪神球団の上場をめざしたのは、株主のチェックをうけることで、より経営が健全になるからだという。たとえば、「たかが選手」というような老人に、いまは鈴をつける者もいないが、ファンが株主となれば追い出すこともできるというわけだ。それは一理ある。しかしそれなら、読売新聞の株を買い占めてもらいたかった。そのへんが、ちょっと胡散臭いところではある。

さて、私のきくところによると阪神は、岡田監督を今期一杯でクビにする予定だったらしい。かれは、星野の辞任によってあいた穴をうめるためによばれただけで、優勝なんて想定外だったわけである。球団フロントすら、かれを顔で判断していたのだ。だがこれについては、たとえ上場されても、事情はかわらずアホ顔の岡田監督は解任されていたことだろう。そのくらい世間は醜男には冷たい。

しかしながら、このきびしい現実をうけいれるほかに、われわれ容姿に不自由な男の生きる道はない。その意味で、理不尽な逆境にたえて優勝にかがやいた岡田監督こそは、われわれの希望の星であり、真のヒーローではないか。

 


国連安保理の正体を暴く

                             

 ひさびさに同級生のS野君がたずねてきてくれた。かれのいうには、いつも私の書くものを読んでいるが、最近はつまらなくなった、という。

「まえは鋭い攻撃力があって、もっと面白かったんだがなあ」

「そうかなあ、そんなはずないんだが」

 と、いちおう答えておいたが、じつは私にも、心あたりがある。

 さいきんは、手当り次第に喧嘩を売るということがなくなった。ひとつには、こう見えても、いろんなプレッシャーに耐えて、私も書きつづけてきたわけで、あるときは脅迫めいた手紙がきたり、あるときは中途半端な政治家の圧力をうけたり、さまざまなことがあった。もちろん、その間、いろいろなかたちの励ましもいただいてきたが、いつのまにか文章に配慮の余地をつくるようになったようだ。

 もうひとつは、私とて人生経験をつんできて、角がとれ、丸くなったのである。批判の対象についても、「もののあはれ」を感じる。つまり、歳をとったということだろう。

 それから、私自身たいした人間でもないのに、居丈高な批評をおこなうことにも、後ろめたさをおぼえるようになった。いささか手遅れの感はあるが、私もようやく人並みの羞恥心をもつにいたったわけである。

 以上要するに、私の「人間的成熟」が文章を丸くしているわけだが、しかしそれで私の書くものが面白くなくなったのでは、意味がない。このさい原点回帰して、若い憤怒をとりもどし、大人気ない大人を志そうと思う。

 閑話休題。町村外相以下、国連安保理の常任理事国にいれてもらおうと、外務省をあげて運動しているが、無駄な努力は止した方がいいと私は思う。既存の五か国は、これは断言してもいいが、表面的に日本支持を表明している米国をも含めて、一国たりとも、自分たちの特権を日本に分け与えようなんて考えはさらさらない。しかも、かれらのうち一国でも拒否権を発動すれば、それでこの話はオジャンなのだ。

 そもそも「国際連合」などと訳すと、なにやらたいそうな世界平和の組織みたいだが、実体は第二次大戦時の「連合軍」である。安保理の五か国は戦勝国であり、日独伊は「悪の枢軸」だった。だから、小沢一郎流の「国連主義」などというのは、ばかげた幻想にすぎない。国連とは、英米仏中露の五か国に都合のよい世界秩序を維持するための組織にほかならないのである。

 だからこそ国連改革が必要なのだ、というのはおつむの軽い理想主義者の空想である。安保理拡大というのは、その実、日本が国際社会での特権的地位に食い込む運動なのだ。それをなしとげようと思うなら、「戦勝国」なみの気概と犠牲を供する覚悟がいる。どうしてそういうシビアな現実を直視しないのか、私にはそこがわからない。

 中国をみるといい。経済力の伸長のかげで、着々と軍事力を増強している。日本の軍事大国化をさかんに宣伝するのは、みずからの正体を誤魔化す手段の一つといえよう。みもふたもない話、実績をみればフセインも中国共産党も大差ない。事実、いずれも全体主義国家であり、チベットやベトナムにいきなり侵攻したではないか。国連軍が派遣されないのは、中国が安保理の常任理事国であるからだ。そしてそれを裏書する強大な軍事力と核兵器を保持しているのである。なにも中国だけではない。中国ほどひどくはないにしても、基本的には五か国はその点では、同じスタンスに立っている。

 したがって日本は、少なくとも核兵器をもつ覚悟がなくては、安保理の常任理事国になどなれはしない。かりになれたとしても、事実上、なんら発言権はもてぬことは明白である。拒否権と核兵器は表裏一体の刃なのだ。日本政府が本気で特権的地位を手に入れようとするのなら、そのなまぬるい平和主義をまず捨ててかからねばならない。

 が、パンクでアナーキストの私は、むしろこういいたい。

「安保理拡大ではなく、安保理を解体せよ!」

郵政解散の本質について

                                       

衆院選挙がはじまった。選挙結果を予測するとき、私はいつも二人の意見を参考にする。一人は、大学教授(何の学問をしているんだろう)の福岡政行氏。この人は選挙の予想屋なんだけど、私の観察の結果、彼の予想はかならず外れるので、まずそこで一つの可能性は消える。

そしてもう一人は、本欄にもたびたび登場するY屋さん(兄)で、彼の予測はけっこう当たる。そこで、折をみて質問してみた。すると、

「小泉さんが勝つと思うよ。なんだかんだいっても、ちゃんと構造改革はすすんでるんだよ。国民はそれを評価するさ」

「でも、道路公団民営化なんて、有名無実じゃないですかね」と、私。

「それは違う。民営化したからこそ、今回の副総裁にまで及ぶ談合の実態が明るみに出たんだよ」

私は、Y屋さんとちがって、竹中「骨太改革案」をあまり評価しない。彼の提唱する改革の本質は、官から民への資本の再配分であり、それは米国主導のグローバル経済への適応、市場競争の導入というかたちをとる。しかしその結果もたらされる社会について、小泉構造改革は無責任といっていいほど、無頓着である。「骨太改革」さえなしとげれば、あとはおのずとすべて良い方向に進むはずだと信じられているらしい。つまり、小泉改革は出たとこ勝負であり、将来の明確なビジョンなどないのである。

郵政民営化に例をとれば、三五〇兆円の資金は民間に流れ、そのことにより役人の無駄遣いは減り、日本市場は潤うといわれているが、実際にそうか。資金は外国に流れ、あるいは都市部でミニバブル経済を引き起こすことになりはしないか。仁義なき競争社会の様相をさらに加速させはしないか。だが、そういう事態へのリスクヘッジはいっさい無い。そのくらい、構造改革の結果について、無関心なのである。

おまけに、郵便のユニバーサルサービスを守るという名目で、道路公団と同様、相変わらず国の資金がつかわれる中途半端な民営化で、行政改革に寄与するどころか、へたをすると巨大赤字の特殊法人を新設することになりかねない。無駄遣いの資金源を断つことことも重要だが、無駄遣いそのものを規制することに手をつけずにいて、どうして行政改革がなしとげられようか。以上の理由で、私には小泉構造改革を信頼することは到底できない。

それなのに、私はY屋さん(兄)に同意せざるをえないのである。というのも、何もしなければ、そのまんま旧弊は温存され、あまつさえ肥大化することになるからだ。口でいくらいいことをいってみても、それを実行にうつせなければ意味はない。一歩でも半歩でも先に進めることが重要なのだ。不備があれば、あとで修正すればいい。ところが現在の国会は、すべての国会議員が改革派を自任しているにもかかわらず、会議は踊る、されど進まず。議論を尽くすべきだというきめ台詞の名の下に、緊急重要法案がのべつ先送りにされる。行革は遅々として進まない。

その必要性がわかっていながら、政治課題にさえあげられなかった郵政改革を、たとえ不備なもであったとしても、ここまでもってきたのは、なんといっても小泉首相個人の力である。Y屋さんは、そういうことをいっているのだと思う。政治とは行動であり、行動とは優先順位の選択にほかならない。万全を期していては、一歩も前へは進めない。ましてやこの大きな時代の転換点にあって、「叡山焼き討ち」をも辞さぬという、強い行動力がいまもとめられているのではないか。

その意味で、現在の政界で真に行動しているといえるのは、小泉首相ただ一人であり、その他の人々は、かれの行動に押されて動いているだけだ。しかしながらそれはまた、われわれ国民にとっては、きわめて不幸なことではないだろうか。

さて先ほどテレビを見ていたら、くだんの福岡政行氏は、意外や意外、小泉自民党絶対有利と予想していた。これで私にも結果は読めなくなった。いずれにしても、まれにみる興味ぶかい選挙である。みなさん、投票に行きましょう。



貴乃花よ、熱く語れ

                         

朝のニュース。河野洋平衆議院議長が小泉首相を訪ねて、靖国参拝を断念するよう要請。しかも、過去五人の首相経験者の意見をとりまとめて。

私の目には、これはきわめて日本的な光景にみえる。

まず第一に、河野氏個人の意見ではなく、長老六人の「総意」というかたちをとっていること。第二に、靖国参拝それ自体の是非は棚上げにして、それが中国や韓国との和を乱すからという理由だけで、中止させようとしていること。

私たち日本人は、古来、「和をもつて貴しとなす」国民である。私は他人に合わせ、他人は私に合わせる。そういう暗黙の合意の上に社会は成り立ってきた。いろいろな意見があるにしても、最終的に集団全体の和をめざそうとしない行動や主張は、悪として排除される。いいかえれば、真実や合理性よりも「和」が上位にあり、それを守ることこそが正義だとみなされる。今回の河野議長の行動は、こうした日本的な思考のスタイルの端的な表現であるといえよう。

いま思いだしたのだが、大学でヘーゲルの弁証法について講義をうけたことがある。弁証法というのは、正・反・合の運動である。ある主張に対し、反対の主張がなされる。そしてその両者を「アウフヘーベン」することで、より高次の段階にいたる。教授の説明のニュアンスは、そういう平和的なものだった。わりと日本的な思考法だなあ、と私は感じたものだった。

しかし実際にヘーゲルを読んでみると、ぜんぜんちがった。というのも、ヘーゲルの力点は合ではなく、むしろ反の部分にある。かれは否定の力というものを徹底的に強調する。したがって、そこで想定されているのは、最終的に和をめざす自己主張などではなく、自己の存在と理想をどこまでも貫き通し、集団や共同体と鋭く対立する、自由で独立した個人である。のみならず、この対立と矛盾のはてにこそ、のぞましい社会が実現すると考えられている。つまり、闘争というものを人間関係の基礎におくのである。

こういう社会像は、全会一致を理想とする私たちとはおよそ肌の合わないものであるが、どちらが正しいとか、そういう問題ではない。どちらにもよさがある。が、ただいえることは、歴史的段階として、個と個がぶつかり合うヘーゲル的な社会像が、いま世界の主流となっているということだ。そうである以上、そこでは日本的な和の精神は通用しない。

ことに、国際社会ではそういえる。河野議長は、こちらが中国に合わせれば、中国も日本に合わせてくれると期待しているわけだが、そんなことはありえない。意味もなく譲歩したという実績がのこるだけなのだ。事実、これ以上過去は問わないという約束で、日本政府は何度なく謝罪してきたが、そのたびごとに約束は反故にされ、それどころか「過去を反省しない国」と一方的な非難さえうけているではないか。当の中国は、七九年に「教育」と称してベトナムに侵攻したが、謝罪はおろか、反省もしていない。いや、中国だけではない、米国もロシアもフランスも、いったいどの国が過去の戦争について謝罪しただろうか。

謝罪するなというのではない。いや、日本はおおいに謝罪すべきだ。しかしもう一方で、自国の立場というものを強く主張すべきである。現在の東アジアで最大の軍事的脅威はわが国ではなく、あくまで中国であるし、過去にどういう戦争があったにせよ、それだからといって中国に在住する日本人の生命財産が危険にさらされてもいいということにはならないのだ。

夕方のニュースで、貴乃花親方の会見をみた。はじめて重い口をひらき、さまざまな出来事について、自分の考え方を率直にのべていた。結論しかのべぬ寡黙な弟は、饒舌な兄にくらべて、いつも損な役割を演じさせられてきたようだ。彼は日本的な男の美学をつらぬいてきたのだが、彼の不人気は、もはや国内でさえ、そういう伝統的な価値観が通用しなくなった現代の状況を示しているのではあるまいか。

私たちも、対立を恐れぬ生き方というものを、そろそろ身につけるべきときが来ているのではないだろうか。


尼崎脱線事故のかくされた原因


 ある候補者のマニフェストづくりに参加する機会を得た。
母校の石田教授の指導のもとに行われていて、マニフェストというものについての簡単な講義を聴くことができた。

マニフェストと従来の公約と、いったいどこが違うのか。結論からいえば、マニフェストは具体性が命である。いわゆる総花的であいまいな公約とは全然ちがって、政策の優先順位と期日、数値目標をはっきりと示す。たとえば、こんな感じ。

「私は、○年×月までに、□□を△個所設置します。その場合の財源として○○を導入します」

こうしたいくつかの政策をまとめて、選挙民に提出するわけである。公約とちがって具体性があるだけに、当選後は強い拘束力をもつ。もし政策が実現されぬ場合、次回の選挙で落選することになるが、へたをすると、任期なかばでリコールということにもなりかねない。事実、そういう例もいくつか報告されている。

市民本位ということでは、一見、いいことづくめである。しかし私にはいささか疑問がある。マニフェストというのは、結局、政治を「市場原理」にさらすことにほかならない。政治をそういうふうに扱っていいものかどうか。

私は市場原理など信頼しない。たとえばタレントの暴露本は『カラマーゾフの兄弟』とは比較にならぬくらい売れる。ということはつまり、市場においては、ドストエフスキーよりも俗悪な暴露本のほうが価値があるということだ。市場価値は真価を反映しない。売れるものがよいものだとは、かならずしもいえないのだ。

選挙という短期決戦の「市場」に政策が売りにだされた場合、選挙民にたいするサービス合戦に堕すおそれがある。耳に心地よく、めさき得になる政策が優先され、よりよき将来のための中・長期の政策はないがしろにされるだろう。

いま内政における最大の課題となっている郵政民営化にしても、要するに郵政を市場原理にさらすということだ。小泉首相は民営化を絶対的に正しいと主張しているが、はたしてそうか。

郵政を民営化した場合、いまのような均等なサービスが失われるリスクがあることは否定できない。首相の意図は、公団、事業団、政府系金融機関等が積み上げてきた巨大な損失の源泉、財政投融資の原資である郵貯からの流れを断つことにある。が、それなら、なにも民営化せずとも、各省庁が不要な外郭団体を増殖させたり、無駄な施設をつくって天下り先をふやすこと、それ自体をどうしてやめさせられないのか。かれらの非をどうして真正面から追及しようとはしないのか。市場原理に頼るだけの政策はかならずや破綻する。

今回の尼崎の脱線事故をみるといい。民営化されたJR西日本は、関西の私鉄との激しい競争にたえぬき、市場原理にみごとに適応した優良企業だ。ところが利益追求を優先するあまり、結局、安全を犠牲にしてしまう結果となった。金になろうがなるまいが、自分の仕事は全うするという精神が現場に生きていれば、あれほどひどい脱線事故にはなっていなかったろう。

本当に恐ろしいのは、精神の退廃なのだ。いま噴出しているすべての問題の真の原因はここにある。ホリエモン氏は、

「金で買えないものなんて、実はないんです」

といったが、それならどうして巨人は最下位なのか。こういう物質主義にけっして屈してはならない。

私は市場原理を否定するものではない。しかし、市場原理万能主義には断じて反対だ。市場原理というものは、それを超える存在をみとめてこそ、正常に機能するのである。金で買えるものの価値を裏書しているものこそ、金で買えぬものにほかならない。そのことを忘れた市場原理主義、というより拝金主義が、いまこの国を確実に蝕んでいる。

いままさに、日本という列車は破滅にむかって暴走している。それを止められるのは、私たち自身であり、それぞれの責任ある行動によるほかはないのである。


ホリエモン悪人説を斬る

前回、ライブドアを支持する文章を書いたのだが、それを読んだY屋さん(兄)に、堀江氏をキライだという部分は不要だろうと、鋭い批評をうけた。

たしかに、文章の首尾一貫と効果を考えると、おっしゃる通りなのだが、私としては、そういう自分の感情を伏せておくことはむつかしいのである。たぶん、私が「詩人」であるからだろう。

まあしかし、一ヶ月前とはずいぶん状況がかわった。旧体制に果敢にいどむ若武者・ホリエモンのイメージは、他人の家庭に土足で踏み込む乱暴狼藉者へと変貌し、はっきりいえば、マスコミに執拗なバッシングをうけている。

堀江氏は悪人なのか。私の眼には、ソフトバンク・インベストメントの北尾氏のほうが、よほど悪代官然とうつるのだが。

ところで、ちょうどよい本を読んだ。中島義道著『悪について』である。朝日新聞に好意的な書評がでていたので読んだのだが、たしかにおもしろかった。著者は高名なカント学者で、カント倫理学を紹介しながら、悪の問題について平易に語っている。

カントは倫理について、きわめて厳格な態度をとる。たとえば、「情けは人のためならず」という日本の道徳は、かれにいわせれば偽善である。なぜなら、親切は回りまわって自分を利すると考えるのは、その行為に「自己愛」がふくまれていて、不純だというのである。いっさい雑念をもたず、「人に情けをかける」という無償の行為、それを「定言名法」というのだが、それに徹することこそが真の善であると、カントは主張している。

中島氏は、そこから一歩すすんで、「自己愛」が諸悪の元であり、それをふくむ行為を、すべて「悪」であると規定する。

「悪にまつわる私の唯一の関心は、善人であることを自任している人の心にすまう悪である」

そうなると、おたがい「ウィンウィン」になる理想を掲げながら敵対的買収を仕掛けた堀江氏は、その野望ゆえに、悪人であるということになる。自分の成功のために、人や企業を踏み台にしている、と。マスコミや新聞記者も、大げさにいえば、そういう倫理観にもとづいて堀江批判を展開している。

しかし私はそういう狭い倫理観に反対である。そんなことをいいだせば、たとえば「プロジェクトX」に登場する人は、みんな悪人であるということになる。かれらの成功の影で泣いた人もいるだろうし、なにより彼らは、自分や自分の会社のため、すなわち「自己愛」を発条に赫赫たる業績をおさめた人びとである。当のカントにしても、哲学史有数の悪人ということになりはしないか。

中島氏は、失礼ながら、カント読みのカント知らずではないか、と私は思う。カントは、自己愛をふくむ行為を悪であるといっているわけではない。ただ、なんぴとも純粋な善ではないという「負い目」をもつべきだ、と主張しているだけだ。

人間には、自己愛もあれば、純粋な理想もある。しかし、それは渾然としたものであり、自己愛と生命力は表裏一体の現象である。ところが人間の認識は、カントが『純粋理性批判』でいうように、アプリオリに空間と時間という形式に規定されている。つまり、一人の人間のうちの、理想と自己愛を、べつべつに見てゆくことになる。旧体制に反抗する若者が乗っ取り屋に変身したわけではなく、そういう順番で見ただけのことであり、本人にはあらかじめそういう要素が同居していたわけである。

ものの言い方が傲慢だとか、人の心を踏みにじるとして、マスコミは一斉にホリエモン叩きをやっているけれども、それだからこそ、あの若さで成功を収め、野球界や経済界の旧弊を平然と無視するパワーがあるのだ。よく引き合いにだされる孫さんや三来谷さんにしても、彼より先行しているだけで、目立ちたがりやの差はあるにしても、本質はそう変わらない。

いずれにしても、堀江氏の軽率な発言は、若気のいたりの範囲であり、「想定内」ではないか。なにも悪というほどのものではない。本物の悪は、もっと醜悪で救いがたいものである。


お台場の怪人、ホリエモン斬り

今回私は、ライブドアのニッポン放送株取得の問題について大いに論じようと思うのだが、まず最初に断っておきたいことは、堀江貴文という人は虫が好かぬということである。田中康夫とか、青島幸男とか、ああいう目立ちたがり屋のスタンドプレーには、私は反感しかもてない。

にもかかわらず、ここでホリエモン擁護論を展開しようとするのは、あくまで私が正義と真実の人だからで、政財界、マスコミ総出の堀江つぶしにギフンを感じていることが動機である。

もっとも、今回の「乗っ取り劇」を正義だと考えているわけでは毛頭ない。本来、経済活動に正義もへちまもないのだ。善ではないのと同様に、悪でもない。なのに、それをさも悪事のようにいいたてるのは、いささか度がすぎた中傷ではないか。

市場のルールに則って株式を買い、その企業の経営に参画するというのは正当な経済活動であり、それに難癖をつけて阻止しようとするのは、当事者のフジテレビをべつとすれば、自由主義経済や株式取引の否定であり、既得権者の過剰防衛であろう。

森元首相は、「金があれば何でも買えるわけではない」と堀江氏を批判した。ごもっともです、センパイ。でも株は金で買えるのです。どっかの党では、政治も金で買えるらしいですが。

森さんの発言は、プロ野球に参入しようとした堀江氏にたいするナベツネ氏の態度と酷似している。結局、旧体制を維持しようとする老人の自己保全本能からでた妄言なのだが、舞台はプロ野球オーナー会議から、政財界全体へと確実に広がったのである。

あのとき、堀江氏をスター扱いにしてもてはやしたマスコミも、自分たちに矛先がむかうや、態度は豹変し、いまや足並みをそろえてバッシングに精をだしている。放送事業は普通の企業とちがって公益性が最優先されるべきだなどど主張し、ライブドアに不適格の烙印を押すつもりらしいのだが、ふだんどの局もこれだけ俗悪な番組を平気でたれ流しておいて、よくそういう自己欺瞞がいえたものだ。外資に支配されたほうが、よほど節度ある番組制作ができるのではないかと考えるのは、なにも私だけではあるまい。

 2004年は四人の著名な経営者が表舞台から退場した年だった。ダイエーの中内功氏、ミサワホームの三澤千代治氏、武富士の武井保雄氏、そして西武鉄道の堤義明氏である。かれらは旧世代を代表するカリスマ経営者だが、そろって晩節を汚す結果となった。

四氏に共通するのは、企業私物化の体質である。個人商店ならまだしも、株式上場した公器である企業を、あたかも個人の所有物のように処理しようとしたことが、それぞれの蹉跌を生んだ。

いま問題となっている西武鉄道の株式保有比率の虚偽記載問題は、その典型であろう。根本の原因は、堤家の財産保全という意図にあることは明白である。相続による株式離散によって、堤家の支配力が低下し、グループの支配権を失うことをふせぐために編みだされたのが、あの不正な株式管理の手法にほかならない。再建を託された「番頭」さんは、堤家と世間の板ばさみとなり、自ら命を絶った。悲惨な話だ。

かれらは自分の利権を守るために、平気でルール違反を犯したが、そのスタイルは、旧体制の堕落した実態を象徴していると私は思う。

ところで政府は、株式の時間外取引と、外資による間接的な放送事業の支配にたいする新たな規制を検討しているという。これは、遠まわしな政治圧力であり、明らかに後だしジャンケンである。どうやらこれで、政財界をあげてのホリエモン包囲網は完成したようだ。

よどんだ水には毒がある。自由な取引が保証されてこそ、経済は活性化する。むろん、そこにも一定のルールはある。が、堀江氏がそのルールに違反していない以上、このようなリンチまがいの妨害をするなら、その方がじつは重大なルール違反なのだ。

とはいえ、あんあんあん、やっぱり好きになれない、ホリエモン。残念!


青色発光ダイオードはハッスルしたか                                

昨年の流行語大賞が、「超気持ちいい」であったことに、いまさらながら、異をとなえたい。「ワタシ的」には、「ハッスル」か、もしくは「自己責任」が妥当だとおもう。なにしろ私は小川直也のハッスルTシャツを所持しているし、インターネット株取引の失敗であけた家計の穴をうめるために、毎月のわずかな小遣いをなかば差押られるかたちで、「自己責任」において、こつこつと返済をつづけているのだ。

まあしかし、真面目な話、この「自己責任」という言葉は、昨今の日本人の心のありようの変化をしめす意味で、重要なキーワードではないだろうか。いわく、連帯責任から自己責任へ。

「自己責任」が流行したのは、イラクでの人質事件のときである。被害者たちは国の警告を無視して入国したのであるから、国家にはなんら責任はなく、責任はかれら自身にあるという「自己責任論」が横行した。筑紫哲也氏のようなリベラリストすら、そうした論調に鋭く対立する意見をのべることはしなかった。

ひとつには世論の大勢が政府の自己責任論を支持していたからであり、もうひとつは、自由を最高の価値におく現在のリベラリズムからは、自己責任を否定する論理はでてきようがないからである。

かれらはいつも、国家による個人への干渉を批判する。筑紫的リベラリズムの観点に立てば、国家権力は個人の権利を侵害し、自由を制限し、戦争をしさえする悪のシンボルなのである。この悪を排除して、異なった多様な立場を寛容に許容することこそ、かれらの理想であり、そうすれば世界平和も実現するだろうという。

であるから、人質事件にしても拉致問題にしても、強硬な手段をもちいてでも救出すべきだというような意見はいわない。悪の国家権力を排除するのがキホンである以上、国連とか六カ国協議をもちだしてはきても、日本政府の威力行動を歓迎はできないわけである。

私はこうしたリベラリズムはまちがっているとおもう。権力対自由という図式はわかりやすいものだが、事実とは反する。なぜなら、個人に自由を保障しているものこそ、かれらが悪とみなす国家権力にほかならないからだ。いくらコスモポリタンのような顔をしても、どれほど流暢に英語を話そうとも、かれの身分を保証するのは日本国のパスポートであり、究極の話をすれば、自衛隊の軍事力なのである。これは、良し悪しの問題ではなく、「個人」や「自由」を支えているのは、国家であり権力であるというのは、いまのところ平明な社会の現実にすぎない。

また同時に、人質となった人たちの自己責任を主張する政治家もまちがっている。国民をささえてこその国家であり、政治である。それを放棄するならば、政府などいりはしない。

さて先日、青色発光ダイオードの発明対価をめぐる訴訟で、和解が成立した。一審では六〇〇億円の価値があるとされた対価について、高裁の提示した額は、わずか六億八五七万円であり、結局金利を加算した八億五千万円たらずの額で、発明者の中村修二氏は和解をしぶしぶうけいれた。その背景には高裁の強硬な姿勢があったのだが、私はリベラリストではないので、高裁の和解勧告を支持する。

もっとも、和解額が妥当なものかどうかは解らない。最初に会社側が提示した二万円は論外であるが、六億円もちょっと安すぎる気がする。私がそうおもうくらいだから、中村氏のやるかたない憤懣は当然である。かれのいうように、日本企業に滅私奉公をもとめる体質があるのも、事実だろう。にしても、企業に属する研究者が、中村氏の主張するように、純粋に個人の立場で発明にたいするすべての権利を保持するというのもまた不当であろう。

さきに論じた国家と個人の場合と同様に、職務発明においては、個人の発明を支えているのは企業なのである。その発明が実現するための環境を確保するために、実際にはさまざまな支援体制や便宜が用意されたわけで、会社と個人は相互に関係をむすんでいる。二万円ですまそうとするのも不当なら、発明の権利は全部個人に帰属するというのも行き過ぎではないか。もしそうしたいなら、企業などに属さず、単独の個人として発明に精を出せばいい。でなければ、失礼ながら、単純なエゴイストというほかない。

現代のリベラリズムというのは、私にいわせれば、単純なるエゴイズムの別名である。教訓。人類の歴史において、単純なエゴイズムが勝利した例はない。


本日は即興劇を

                          

 日歯連事件で、村岡さんは、

「私はスケープゴートにされた」

と発言し、橋本元首相や野中さんら旧橋本派幹部の証言と検察の起訴事実を全面否定している。新聞を読みながら、誰が嘘をついていると思うか、父にたずねてみると、

「そりゃ、全員が嘘をついてるんだよ」

 と、答えた。さすがにわが親父殿、すれっからしの生活人らしい叡智のある回答ではあるまいか。
 しかし、私はべつの考えをもっている。ピランデルロ風にいえば、全員が真実を語っている、と私は思う。

話はとぶが、ジャック・デリダが亡くなった。かれは衆目のみるところ、ハイデガー以降もっとも重要な思想家の一人である。「脱構築」という方法論を駆使して、プラトン以来つづいてきた西欧哲学の伝統を徹底的に批判し、解体した。

たとえば、こうして原稿を書く場合、プラトン流にいえば、あらかじめ書かれるべきイデアがあって、それを文字にしてゆくわけであるが、かならず語り残しや不適切な表現があって、いつも不完全なかたちでしかそれは文章化されえない。その場合、結果として、書かれた文章は、そのイデアよりつねに下位におかれることになる。

デリダは、そういう上下関係を批判した。じじつ存在するものは、あくまで書かれたものであって、それを真理の名もとに断罪するのはけしからん、というわけである。

その意味で、デリダはプロタゴラスに似ていると私は思う。

プロタゴラスは古代ギリシャのソフィストで、「人間は万物の尺度である」という有名な、というより悪名高い言葉がある。

人間が万物の尺度であるならば、それぞれ人によって評価はバラバラになって、共通の価値など存在しえない。とすれば、正義も真実も美も、すべて無意味なものとなるのではないか。「脱構築」を万物の尺度としたデリダも、こうした批判にさらされてきた。つきつめていえば、これが真実だと主張するプロタゴラスやデリダ自身の理論も、脱構築されてしまえば、その他大勢の意見の一つにすぎないということになり、彼らの主張自体が破壊されてしまうのである。

だが、彼らの論理をもっと好意的に解釈することもできるし、その方がじつはより正確である。すなわち、あらゆるものは人間に意識されることにより、存在し評価されるのであって、あらかじめ定められた価値などない、と彼らはいっているのである。真実は人の数ほど存在し、そのうち、より多数の人にみとめられたものが「真理」として通用する。一人の意見は、多数の同意によってのみ強化される。さまざまな意見の衝突をへて、その議論の過程のなかより、真理はかたちをあらわしてくるのだ。

結局、彼らは手垢のついた古めかしい偶像を破壊し、もう一度、みずからの現実にたちかえって再出発することを企図していたといえるだろう。

デリダもプロタゴラスも、混沌とした精神の時代に活躍した。しかも二人とも、彼らの意図とは裏腹に、その思想の強力な否定的要素によって、倨傲な破壊者として知られたのである。だが、それは彼ら自身にも責任がある。人間は、自己を規定し裁く存在をみずからの上に理想として掲げなければ、自己それ自身が雲散霧消してしまう。それもまた、生の現実なのだ。彼らはこの現実を無視した。現にあるものだけがリアルだとするのは、あまりに早計にすぎる。

さて、旧橋本派だが、さいきんはもっぱら派閥の勢力維持を最優先課題として、政治理念は二の次にしてきた。この自民党最大派閥の崩壊もまた、理想を失った人間の末路のすがたを私たちに告げているのではないだろうか。

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