三木二寸のあれも言いたいこれも言いたい
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ビジネス本のウソ
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2001年6月10日
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書店にはよく、会社が危ないとか何とか、経営関係、ビジネス関係のハウツウ本のようなものが大量においてあります。
このような類の本は、私は好きではないので、めったに読みません。
ので、独断と偏見ではありますが、
庶民の目から見てずいぶん理屈の通らないことが書いてあるように感じます。
もちろん、実用、実利を目的とする本ですから、理論や正義が求められるのではなくて、
書かれているノウハウが結果オーライのものであればよいのです。
が、それを百も承知で、私は言いたい。
というのは、会社の論理を離れて、消費者側からみれば、
「こんなこと考えて経営している会社からは、もう買いたくないなぁ」と、正直思いますし、
日本は「地域や家庭を顧みないビジネスマン」の世界ですから、
そのような経営本は、社会の理念までを変えかねないからです。
消費者が良いモノ、良いサービスを求める気持は、今も昔も変わりありません。
「良いものが売れる時代は終わった」という意味は、メーカーの側が良いと思うモノを作っても、
それが売れなくなったというだけのことです。
消費者からみれば、しごく当たり前の状態になったということです。
逆の側から言えば、今までは、消費者は良いモノだと納得できないものを買っていたということです。
それは、いろいろな事情があるでしょうが、まず日本は貧しい国で、われわれ消費者も大変貧しかった。
そのような時代には、メーカーのつくる電気製品は大変高かったのです。
庶民のあこがれが「三種の神器」であり、「三C」だったのですが、
おそれ多くも天皇家に代々伝わる宝物に例えられるくらい、庶民には手の出ないものだったのです。
三種の神器【さんしゅのじんぎ】
天皇の地位の標識として、歴代の天皇の受け継いだ三つの宝物。
八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)をいう。(日本大百科全書)
30年代に入って電気洗濯機、テレビに続いて電気冷蔵庫が家庭に入っていった。
この三つは「三種の神器」と呼ばれ、豊かな国民生活の象徴とされた。(昭和・二万日の記録・第11巻)
3C【さんしー】
カラーテレビ、カー(自動車)、クーラーのことで、三つの頭文字から「3C」と呼ばれた。
30年代の白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫に代わる「新・三種の神器」としてメーカーが宣伝、
消費者の意欲をかき立てた。(昭和・二万日の記録・第13巻)
耐久消費財(こんな言葉も死語になるくらいの大量使い捨て時代になりました)を買う場合には、
財布に相談しなければならないのですから、そこそこのもので手を打っていたわけです。
「いつかはクラウン」と思いながら、カローラを買っていたわけです。
しかし、いつしか日本の生産力はすさまじいばかりに成長し、今では日本国民だけでは消費できない、
つまり外国に売りつけなければ余ってしまうほどモノをつくる力があります。
しかも低賃金の外国に生産拠点を移して安価に生産するようになりました。
経済大国といわれるようになり、日本国民も金持ちになりました。
ということで、もの余りの時代です。
そこでようやく、消費者も本当に欲しいもの、本当に良いものを求めることができるようになったのです。
では、企業は、私たちが本当に欲しいもの、本当に満足できるもの、本当に良い品と実感できるものを供給するようになったのでしょうか。
経営本には、顧客を満足できない企業は早晩潰れる、と脅かしています。
間違っているとは思いませんが、でも、真に顧客を満足させることのできる企業は、
いわゆる大企業の中には、今のところほとんどないと、私は感じています。
経営本で必ずほめられる企業の一つに、ドライビールで一躍業界を制覇した某ビール会社があります。
私は、「経営の力でまずいビールをヒットさせた顧客迷惑な会社」だと思っています。
私は結構飲む方なので、その某社の顧客ですが、折角の一杯をもっとおいしいビールでと、いつも思うのです。
日本では、大抵のお店では出てくるビールを飲むほかなくて、「男は黙って」飲むほかないのです。
ただこの会社の名誉のために付け加えると、経営姿勢は立派で、缶ビールと同じサイズの瓶ビールを出しています。
缶ビールの環境負荷に対する顧客の選択を用意しているのです。
これは、会社の直接の利益にはなりません。
各家庭でリサイクル・ゴミとして出される缶は、メーカー自身がリユースする瓶より製造・流通コストは安いのです。
業界最大手であったK社などは、缶の環境問題については全く無頓着で、むしろ缶ビールに力をいれています。
私は、「グリーン購入」のつもりで、これからも某社のビールを「黙って」飲むつもりです。
消費者の側からすれば、望むものを手に入れるには、大変な努力がいります。
仕事に、遊びにと、大変忙しくなった現代人は、欲しいものを手に入れるために費やす時間がほとんどありません。
流通の問題なのです。あらゆるものが、量販店中心に流通するようになりましたので、よく売れるものしか流通しません。
高くてもよいから本当に良いものが欲しいときには、いきおい「ブランドもの」に頼らざるをえないという悲しい現実があります。
「ブランド」指向には、私は批判的ですが、このように仕方ない面もあります。
「ルイ・ビトン」が流行りだし時は、丈夫で確かな造りのカバンだということだったはずです。
安いもので、自分の好みのはっきりしているようなものは、もっと悲惨です。
私の場合、ファイルは同じデザインのものがほしいのですが、
お店に並んでいるものはしょっちゅうデザインが変わってしまいます。
それに何年かたつと、メーカー自身がデザインを変えてしまって、二度と手に入らなくなります。
このように、「顧客満足」という言葉も、流通が「顧客志向」にならなければ、
私たちにはうつろに聞こえると思いますが、いかがですか。
顧客満足を追求する会社では、顧客に失礼がないように、社員に接客マナーなどの研修を行います。
最近の若い人は敬語も満足に使えない(とはいつの時代も言われているのですが)のですから、そのような研修は当然です。
でも、そのような会社では、顧客に対して「お客様」と呼ぶようにしつけるのですよ。
でも、「お客様」などと呼ばれたからといって、本当に親切な対応してくれるとは限りません。
「恐れ入りますが、三木二寸様」などと呼ばれた場合は、ろくなことがありません。
いわゆる「慇懃無礼」(インギンブレイ・うわべはていねいなようで、実は尊大であること。広辞苑)で、
親身になって応対はしてくれないのが普通です。
「○○さん」とか妙になれなれしくしてくるのも要警戒ですが(セールスマン系統が多い、それも押し売り的なやつ)、
やたらに敬語や丁寧な応対でなくて、少し無愛想なくらいのほうが、誠実な対応をしてくれる場合が私の経験上は多いのです。
本当に、顧客の満足を追求しようとしている会社は、
顧客に対する誠実さとは何かを今一度考えて社内に徹底したほうがいいと思いますよ。
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