
早朝、人々は、暖かい暗やみから「豊かさ」をのせてここへやって来る。まだ、エルナクラムの街がうつらうつらしているころ、ここには、すさまじいバイタリティーと屈託のない明るさがつくるインド世界独特の喧噪が渦巻いている。日常生活の中心=市場。人々はそこを「マーケット」と呼んでいた。
流通の核は市場である。市場には香辛料も含めて、あらゆる食材が集まっていた。まずは、問屋や商店の種類別の配置図を書き、市場総合品目調査を開始した。そこで取り引きされている野菜・肉・果物等々の生鮮食料品をはじめ、米や穀物類・香辛料・調理用具等々の名称・形状・価格などを写真とスケッチに記録した。ここまでは、前回のインド行の記録方法を踏襲しただけだったが、約1ヶ月後、「いっそ、まるごと鳥瞰図で描いてみよう!」と突然思い立ち、上空数十メートルから市場を見下ろした構図で描き始めた。
実は、これがめちゃくちゃ楽しい作業となった。市場の連中とはかなり親しくなっていたので、各人の仕事風景を小さく描き込んであげると、「おお、これが俺か、じゃあ、あいつもここに描いてくれなくっちゃ困る」と知り合いの店先に連れていかれ、バナナ問屋では「これはマイソール産、こっちはケーララ産のレッド・バナナ、それぞれ形が違うんだからしっかり描いてくれよ」と注意される。
向かいの八百屋からも声がかかり、「おい、この構図じゃ、うちの店は影になって入らないじゃないか。なんとかしてくれ」とクレームがついたのをキッカケに、野菜や果物の形までわかるように横長のスケッチでお店をズームアップした構図で描く羽目になってしまった。これが鳥瞰図に対する、いわば「虫瞰図」である。
こうして市場中を虫のごとく這いずり廻り、というか引きずりまわされながら、「鳥」と「虫」の視点によるスケッチが出来上がっていった。そこには、一瞬のシーンしか記録できない写真では表現できない「時間列」の情報が含まれていた。一枚の絵のなかに、早朝・昼下がり・夕方の市場のエッセンスが詰め込まれていたのだ。