御伽噺 捌

 

 

 ここはどこだ。

 気付いたら、どこかの洞窟にいた。洞窟の、筈だ。周囲を見回すと、剥き出しの土の壁。なのに、明るい。入口の方からの光ではない。ホールのようにひらけたこの場所自体の壁が光を放っているような。持っていた筈の剣は、俺の手にない。どこに行ってしまったのか。……それともこれは夢なのだろうか。

 ふと、奥にある何か透明なかたまりが目についた。興味を引かれて近付く。大きな、氷……だろうか。そこに一人の少女が入っている。胸を貫くのは剣か。氷の……。

 自分でもよくわからない衝動に突き動かされる。ひた、と氷に手を押し当てた。冷たい筈の氷は、温度を手に伝えない。自分の方がおかしくなったのか、あるいは氷ではないのか。考える間はなかった。

《……誰?》

 どこかで、聞いたような声。

 そうだ、さっきの! あの男の冷気を止めた声だ。……まさか、この少女が?

 有り得ないと、意識のどこかが否定する。だが少女のまぶたが微かに震え……ゆっくりと、瞳が開いた。

「あんたは…………」

 掠れた声が出る。どこかで見た。どこかで見た筈なのに……思い出せない。記憶に枷が付いている。

《……ゼル……ガディス……》

 呆然と少女が呟いた。

 名前を呼ばれて、眉をしかめる。何故俺の名を知っている? そもそも、どうして俺はここにいるのだろう。ここはどこだ。さっきの男はどこに行った? この少女は一体――。押し寄せる疑問が少女に伝わったのか――。

《……覚えて、ないのね》

 寂しげに、いや、哀しげに少女が言った。氷(なのかどうかはわからないがとりあえず)の中にいて、どうして声が聞こえるのかはわからない。しかし現実に、耳の中に少女の声が響く。肉声ではない声が。

《ずっとずっと待っていたのに。あたしはここで、待っていたのに。何一つ覚えていないのね》

 恨みの言葉の筈だ。だが、ただ哀しげに聞こえる。恨みの感情が、感じられない。

《いつもそう。ここに、あたしの声に応えて来てくれるのに。思い出してくれない》

 疲れが、にじみ出ていた。少女が見えない涙を流している気がした。

 ……俺が、いけないのだろうか。何かしたのだろうか、彼女に。どうしても思い出せない。思い出したいのに、頭の中に靄がかかったようで、記憶を探れない。じれったい。なんなのだろう。

「あんたは、誰だ?」

《あたし? あたしは……》

 目を伏せて、彼女は黙ってしまった。聞いてはいけない質問だったのだろうか。

 ややして少女が俺を見上げた。

《あたしは、冬の女王。皆にはそう呼ばれているわ》

 冬の、女王。

 これは夢なのか。ありきたりな確かめ方を、あえてやらない。夢だと知ってしまったら、途端に覚めそうで。現実と認識したら、どこにも逃げ場が無くなりそうで。

 ――逃げ場? 俺は逃げているのか? 何からだ。現実から? それとも、目の前の少女からか。

《ゼル……本当に、思い出せないのね。あたしも、あたしと遊んだ日も》

 遊んだ……。俺が、この少女と? そんな筈はない。俺はずっと一人だった。いたのはろくでもない家族だけ。俺の周りには、こんな少女はいなかった。遊んだ記憶などない。

 ――本当に、そうなのか。俺は、忘れているだけじゃないのか。何か大切な記憶を、忘れている。

《あたしが、彼女を救ったことも。ここに初めて来た日も……。全部、忘れてるのね》

 彼女? 誰だ。初めて来た、と言われても……いま初めて来たのではないのか。俺はこんな場所など、知らない。

旅を始めて結構経つが、こんな場所には来た覚えも、話に聞いた覚えもない。

 ――いや違う。来た筈だ。ここに俺は来たことがある。ここに来て、そして……。

 自分の中で葛藤が繰り返しせめぎあう。終わらせたのは、少女の一言だった。とても単純な言葉だった。

《思い、出して。あたしを思い出して!》

 少女の声と同時に、ぱしん、と何かが弾けた気がした。見知らぬ光景が、頭の中に浮かび上がる。そして記憶の波が怒涛のように押し寄せ……全てがおさまった時。

 俺は、思い出した。

 

 

――御伽噺 玖 に続く。

稿了 平成十一年二月十一日木曜日

改稿 平成十二年二月二十九日火曜日


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