何度も生まれ変わっては、この山に登っていた。この洞窟に、足を踏み入れた。何かに惹かれるように。または、導かれるように。そして何度かはあの金髪の男に殺され、何度かは一命を取りとめた。生きていても、結局、思い出せなかった。
宿の主人が話した昔話。あれは、真実だったのだ。実際にあった出来事。冬の女王と村の青年のすれ違い。
青年は、俺だ。青年の生まれ変わりが俺なのだ。そして、彼女は……冬の女王は、俺が何度も生まれ変わってくるのを待っていたのだ。独りで。ここにずっと。思い出せない俺を、独りで待っていたのだ。長い年月が流れても、自分ではこの氷を溶かせずに。
「ようやく思い出したようだな。だがそれもここまでだ。オレが殺してやる!」
いつからそこにいたのか。金髪の男が俺の真後ろに立っていた。背後からの殺気に、慌てて身を翻す。冗談ではない。せっかく思い出したのだ。思い出して、言いたい言葉があったのだ。殺される訳にはいかない。償いを、しなければいけないのに。伝えないままに殺されたくはない。
《やめてっ、ガウリイっ!》
ガウリイと呼ばれた男が動きを止める。ここに飛ばされる前と同じように。それこそ凍り付いたように。
「……どうしてだ」
絞り出した声は、かすれてほとんど聞こえなかった。
《……ガウリイ……》
「どうしてだ、リナ! この男はお前を……っ」
そうだ。見殺しにしたのだ、俺は。思い出せないまま。幼き日に遊んだ少女だと、思い出せないまま。俺が彼女を氷の中に閉じ込めたのだ。俺のせいで。
《あたしは……》
「オレじゃ駄目なのか!? ずっとそばにいた、オレじゃあ駄目なのか! 誰よりも長く、誰よりも近くにいたオレじゃあ駄目なのか!!」
ジレンマ、なのだろう。彼が抱きつづけていた想い。ずっと氷漬けにされた少女を護り、少女を氷漬けにした俺を憎み。そして何度も生まれ変わっては、ここに来ようとする俺を殺そうとしてまで。そんなにまでしているのは、全て少女が好きだから。だから、そばにいて護りつづけてきたのに。少女の心は彼に向かなかった。どんなに月日が流れても。
《……ガウリイ……》
痛々しそうな表情を浮かべる。見ている者が胸を締め付けられるような。
《――――……ごめん。あたしは、ゼルが好きなの》
ぎり、と彼が歯軋りをした。俯いた彼の顔に影が落ちる。表情が見えず、何を考えているのかわからない。
《ガウリイ》
気遣うような、彼女の声。聞こえていないのか、彼は身じろぎひとつしない。
「オレじゃあ、ダメなんだな」
落胆の声に、痛ましげな眼差しを送る少女。かける言葉が見つからない、とその表情が物語っていた。
「……リナ。ひとつだけ、教えてくれ。オレは、お前にとって――」
顔を上げた彼が、口を閉じる。何を思ったのか、ふと微笑した。哀しげに映る横顔。
「いや、いい。なんでもない。それより、その氷の中から出たいか?」
《ガウリイ……?》
首を、傾げていたのだろう。その氷が邪魔でなければ。少女がきょとんとした視線で彼を見る。
「いいから。出たいんだろう?」
《……出たい、けど》
出るには犠牲が必要だ。彼女の代わりに誰かが氷に閉じ込められなければならない。だから、出たくても出られない状態が何百年、何千年と続いていたのだ。それを誰よりもわかっている筈だ。彼も、彼女も。
口を挟めない雰囲気。俺は待つしかない。彼が何をしようとしているのか、大体の想像はついた。だが、俺には止められない。その権利はない。ましてや義務も。
「それなら、いい方法がある」
彼女が尋ねる暇もなかった。彼の手に見覚えのある剣が現れる。冷たい、氷の剣。刺された者は、自分以外の者が刺されるまで、ずっと氷漬けにされてしまう。
《ガウリイ!?》
「オレが、氷の中に入ればいい――」
《――なっ……待…………!》
制止は、間に合わなかった。スローモーショーンのように、ゆっくりと彼の胸に剣が吸い込まれる。血の飛沫が上
がると思いきや、意外にも何も出ない。かわりに、どこからともなく現れた氷が彼を覆った。
《――ガ――――》
悲鳴が、肉声に変わる。
「――――ガウリイ!」
彼女から、邪魔な氷は消え失せていた。かわりに氷の彫像となった金髪の男に、彼女は足音も立てず走り寄る。
「そんな、……どうして!」
たん! と氷を叩く。答えは返らなかった。彼は目を閉じて、こちらの世界の音が全く届いていないように見える。
実際そうなのだろう。俺も氷の中に閉じ込められていた間の記憶はない。俺の婚約者だった娘も、俺の声が聞こえていないようだった。解放された時にも、自分がどうなっていたか、覚えていない様子だった。女王である彼女が、俺に話しかけられるようになるまでも、相当な時間がかかったようだった。
他の人間では、外の世界の者に話すどころか、外の世界の認識すらできないに違いない。彼女は女王自ら作り出した氷の中にいたからこそ、俺に話しかけられたのだ。
「ガウリイ! 聞こえてるんでしょ、答えてよっ! どうしてこんなこと…………っ」
彼女は氷を叩き続ける。洩れる嗚咽に、ずき、と胸に痛みが走った。見ていられない。
「――リナ」
ようやく思い出した名前。口にすると、少女の肩がびくっと動いた。氷を叩いていた手が動きを止める。振り向かない彼女に、静かに歩み寄った。
「……彼は、こうしなければならなかったんだ」
腕の中におさまった彼女の身体はひどく小さく、また、氷そのもののように冷たかった。震えが直に伝わってくる。
哀しみのせいなのか。それとも……。
「……どう、して……どうして!? あたしは、こんなこと望んでなんか……いなかったのに……!」
きっと彼は彼女の望みを全て叶えてきたのだろう。どんな困難な望みでも。だがこれだけは、譲れなかった。彼女の望み通りに出来なかった。彼は自分が犠牲になる道しか、選べなかったのだ。
「だったらまだ、あたしが氷の中にいた方が良かったのに!」
「それでもだ。いや、だからこそ彼はこうしなければならなかったんだ」
彼女にはわからないかもしれない。彼の想いは、理解できないかもしれない。つらい、想いを。
「わかんないっ! そんなのわかんない!」
彼女は激しくかぶりを振って、氷を叩いた。自分の手を壊そうとでもしているかの様に。止める為に、彼女の拳を自分の手で包む。勢いを止めきれず、氷に叩きつけられた。痛みにうめきを洩らす。
「…………ッ……」
「あ……ゼ……ル…………」
少女の身体から力が抜ける。手を握ったままで抱き締めた。
「気にするな。痛くない」
「――――……で、も」
そうは言っても無駄だろう。わかっているから、彼女の考える方向をずらす為に口を開く。
「それより……いつまでも、ここにいるつもりか」
あるいは逆に、彼女を追い詰めるだけかもしれない。だが、ここに彼女を残しておきたくはない。わがまま勝手となじられてもいい。それでも、彼女を置き去りには出来ない。
「ゼル……?」
意味を理解できない、と彼女が言外に言う。
「俺と、…………一緒に来て欲しい」
「なに、言ってるの……」
震える声。彼女にだってわかっている筈だ。
「嫌か? 俺と一緒にいるのは。俺はリナと一緒にいたい。リナの傍にいたい」
「ゼル…………。あたしは……」
「ここに残る、か?」
彼女の身体を放す。彼女は振り返り、俺を見上げた。
「それを彼は喜ぶと思うのか」
彼女が何か言う前に、と先に話す。彼女は目を見開いた。
「彼が何の為に自分から氷漬けになったのか、考えたか?」
「あたし……は…………」
うなだれて、手を握り締める。ややして口を開いた。
「…………そんなの、あたしにはわからない」
哀しみが、声に混じっている。どれほどの時を、彼と過ごしたのか。俺は知る術を持たない。だが想像は出来る。
長い間二人でいた彼ら。その間にあった感情が、愛情ではなくても。
「ガウリイがなに考えてたのか、なんて……あたしにはわからない」
顔を上げた彼女の目に、涙が浮かぶ。
「でも、だから余計、あたしは……ガウリイを一人に出来ない。こんな風になったガウリイを、一人にしておけない」
「それを彼が望まなくても、か」
ぐ、と彼女が言葉に詰まる。睨みつけてくる眼差しが、力を失っていく。たまらなくなって抱き寄せた。
「俺と一緒に来い。独りにはしない。誰よりも近くにいるから」
「…………ぜ……る……」
「もし、会えたら言おうとずっと思っていた。あの日……リナと遊んだあの日から、俺はリナを忘れた時なんかなかった。いつか会えたら言おうと思っていたのに――」
リナだと、会えたのにわからなかった。わからないどころか、彼女を氷に閉じ込めてしまった。冷たい氷の中に。
独りぼっちにさせてしまった。今の事態を引き起こしたのは俺なのだ。
「すまない。俺が、あの時リナだとわかれば……こんなことにはならなかった」
彼も、こうして氷漬けにならずにすんだ。全ては俺の責任だ。
「俺が悪いのに、こんなことを言う資格はないのかもしれない。だが、俺は」
「ゼルのせいじゃない。誰のせいでもない。誰も、悪くない」
「――リナ……」
彼女が何を思って赦しの言葉を言うのか。俺には想像すらつかなかった。
「……ゼルと、一緒に行く。行きたい。…………あたしを、ここから連れ出して」
抵抗も何もしなかったリナが、初めて自分から行動を起こす。俺の背中に腕を回して抱きついてくる。
「――……いいのか」
信じられなかった。彼女が首を縦に振ってくれるまで、何でもしようと、どんな言葉でも口にしようと、決心は固かった。だが逆に、彼女は俺と一緒には来てくれないとも思っていた。何をしても、何を言っても。彼女には届かないと。
思っていたのだ。故に、にわかには信じられなかった。
「連れてって。あたしもゼルと一緒にいたい。ゼルと一緒に行きたい。……本当は、こんな所に独りでいたくなんかない。ガウリイ、あたしに素直になれって言ってくれたんだと思う。それがあたしの思い込みでも、勝手な解釈でも、かまわない。ゼルの傍にいたいの」
肩が小刻みに震える。また、泣いているのか。強く抱き締める。泣かせたくなくて。
「あたしは、ガウリイより、ゼルを選ぶ」
「リナ……」
涙声になって聞き取りにくくなったリナの声。でも俺には聞こえた。確かに、リナの声が聞こえた。
「もういい。言わなくてもいい。わかってるから……言わないでも俺にはわかるから」
抱き締めた腕を外して、リナの頬を包む。思った通り、彼女は泣いていた。赤い目が、罪悪感を更に膨れ上がらせる。
「ゼル……っ」
そっと、こわさないように、口付けた。触れるだけで消えてしまいそうで。儚げに見える彼女が、俺の手を擦り抜けどこかに行ってしまいそうで。
「――愛してる、リナ。ずっと言いたかった。誰よりもリナに、言いたかった……」
何度も触れた唇は、やがて氷のような冷たさをなくし、あたたかくなっていった。リナの頬も腕も同様に。それは、冬の女王ではなく、春の女王に生まれ変わるかのようだった。
二度と放さない。裏切ったりもしない。心に、誓って。
洞窟の外はすがすがしい晴れの天気だった。ここにいる間に夜が明けてしまったらしい。太陽が高く昇っている。
昨夜の内に降った雪が、見事な銀世界を見せていた。
――御伽噺 什 に続く。
稿了 平成十一年二月十一日木曜日
改稿 平成十二年二月二十九日火曜日